菅江真澄: 小金山神社

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小金山神社

菅江真澄: 小金山神社(青森県青森市)

【菅江真澄】菅江真澄が始めて小金山神社青森県青森市)を訪れたのは寛政8年(1795)4月15日、乳内(現在の青森市入内)に着くと、慈覚大師円仁(平安時代の天台宗の高僧)が創建した観音堂に参拝、400年前(真澄が訪れた年から逆算すると西暦1400年前後)には白山の宮と称して山頂に八十一隣姫(白山信仰で祭られている菊理媛尊と思われます)が祭られていましたが現在は此神を地主神として、観世音菩薩を槻樹館の主人隅田小太郎を名乗る人が御堂を建て祀っているとしています。真澄はこの神社を「こがね山の神社」と推測していたようですが、間違いだったとし、日記上は最初ですが何度もこの神社に訪れ色々由緒などを聞きまわっていたと記しています。以前の日記(津軽の奥)では寛政7年(1795)10月19日に入内を訪れ、大同年間(806〜810年)に創建され、くくりりひめ((白山信仰で祭られている菊理媛と思われます)の木像を祀る小さな祠と薬師仏が祀られている御堂、慶長(1596〜1615)の銘のある五輪塔を見た事が記されているので、その事かも知れません。寛政7年(1795)時点での真澄は黄金山の神を祀ったのはこの境内で、元々は神社であったが、それが観音堂に建替えられたのであろうと推測しています。そして、万葉集で大伴家持が詠んだ「鳥がなく東のくにの陸奥の小田なる山にこがねありと」で、出てくる「小田なる山」を当時、耕田の岳と呼ばれた八甲田山ではないかと思いを寄せています。次の日である10月20日にも参拝に訪れ、八甲田山に登った際には再び参拝に来ようと誓っています。それが寛政8年(1795)では間違いだったと否定しているのです。

【小金山神社】−小金山神社は伝承によると大同年間(806〜810年)に坂上田村麻呂が当地を支配した大嶽丸(蝦夷の首長)を破り、その首の上に観音像を安置し、天慶年間(983〜947年)に平将門の孫を自称する信田小太郎が当地に流れ着き、観音堂を建立、その守護神として白山神の分霊を勧請し、自らの運命を神仏に託したとされます。慶長年間(1596〜1616年)に初代弘前藩(藩庁:弘前城)の藩主津軽為信公が正式な寺院「華福寺」として再興、しかし無住になると荒廃、それを憂いた住民が寛永18年(1641)に観音堂を再建しました。明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈運動により、仏教色が一掃され、現在の社号である小金山神社に改称、しかし、観音信仰自体は続けられ、時を見計らい再び、信者が隠し持っていた慈覚大師円仁が彫刻したと伝わる旧本尊を再び安置しています。その後、小金山神社の社殿が現在地に再建された際、旧社殿は観音堂として独立し津軽三十三観音霊場第24番札所となっています。小金山神社の祭神は大山祇命。

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