菅江真澄: 宝厳山法眼寺

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宝厳山法眼寺

菅江真澄: 宝厳山法眼寺(青森県黒石市)

【菅江真澄】菅江真澄が始めて法眼寺青森県黒石市)を訪れたのは寛政7年(1795)11月8日、その日の朝、温湯温泉に行く為に前日宿泊した高田恵民宅から出立、村はずれの法眼寺を訪れ、有名だった梵鐘の由来などを聞いたようです。それによると、享保年間(1720〜1730年)に当時の住職である廬山が江戸で梵鐘を鋳造させ、一端大坂に船で運び、そこから当地まで船で運ぼうとしたところ、秋田沖で大波にあい船が転覆し梵鐘も海中に沈みました。廬山は悲しみは深く、これが原因で体調を壊し1年後には亡くなってしまいます。その後、廬山の50回忌の法事が行われようとした時、常陸の国鹿島郡上幡木村の浜で黒い物体が漁師の網にかかり、調べてみると津軽の黒石○○寺の銘が刻まれている事が判り、法眼寺のものとして船主重兵衛が青森湊まで運びました。丁度、廬山の50回忌に合わせて発見された事から人々は廬山の念願が天に通じたとして沢山の人が梵鐘を見に参拝に訪れたそうです。真澄もぜひその梵鐘が見たいと法眼寺を訪れ、梵鐘の銘まで正確に書き写しています。最後に真澄は朝夕と鳴り響くこの梵鐘の音色は深い苔の下に眠る廬山禅師にも心地よく聞こえるだろうと結んでいます。

【宝厳山法眼寺】−法眼寺は延宝8年(1680)、南宗元頓(勢州阿坂:現在三重県出身)によって温湯村(現在、黒石市にある温湯温泉の温泉街)に開かれた黄檗禅宗の寺院です。元禄4年(1691)に黒石津軽家3代目当主津軽政たけが本拠である黒石陣屋(青森県黒石市)に近い現在地に移し、寺領を寄進するなど庇護し、黒石津軽家の祈願所としました。本藩である弘前藩(藩庁:弘前城)領を合わせても黄檗宗は3カ寺しかなく法眼寺はその中心寺院として寺運が隆盛し、境内には本堂(明和6年:1769年建築、青森県の県宝)をはじめ、鐘楼堂(延享3年:1746年建築、青森県の県宝)、開山堂(正徳3年:1722年建築、黒石市指定文化財)、山門(寛保元年:1741年建築、黒石市指定文化財)などの堂宇が残されています。又、明治時代初頭に発令された神仏分離令により黒石神明宮から観音堂(本尊:十一面観世音)が移され津軽三十三観音霊場二十六番札所となっています。

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