菅江真澄: 高照神社

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高照神社

菅江真澄:高照神社(青森県弘前市)

【菅江真澄】菅江真澄が始めて高照神社青森県弘前市)を訪れたのは寛政8年(1796)3月1日、この日は百沢寺や下居の宮(現在の岩木山神社)などを参拝してから岩木山に登頂、下山後に高照神社で参拝を行いました。それによると、境内に最初に現れてくるのは祭司、宮守の住居、神馬の小屋などが見え始め、神殿は大きく高く造られているとしています。真澄は此処で祭られている弘前藩4代藩主津軽信政の事を思い起こしたようで次のように説明しています。高照霊社(信政の霊号)は生きている時は、特に芸能の興味があり、大変に好まれていました。宝永7年(1710)10月18日に病気になっても、病床に芸能に通じる人達を御呼びになって歌や遊びを行っていると、突然、気分が悪くなり、死期を悟った信政は普段着を脱ぎ捨て、正装に着替え、合歓塩という曲を奏し、その遊びの最中に亡くなったとしています。

【高照神社】−上記の説明だと高照神社の祭神である津軽信政が藩政をかまけて遊びにふけっているような印象を受けますが、実は石田三成の曾孫にあたる人物で弘前藩主津軽家の中では名君に数えられ、数々の実績を挙げています。津軽家の成立には中々困難な歴史があります。そもそも、津軽家は南部家の一族から発生した氏族で、南部家から見ると家臣同然の存在でしたが、初代となった津軽為信が南部家からの独立を図り、かなり卑劣な手段を使い津軽地方を統一したとされます。その時期は豊臣秀吉が発令した惣無事令(私闘禁止令)の前後だった事から、同じ戦でも津軽家では発令前、南部家では発令後に起こった事にして豊臣家に対して訴えていました。この時、津軽家の取次をしていたのが石田三成で、三成の尽力によって津軽家は南部家から独立し、近世大名の礎を築く事が出来たといっても過言では無い程でした。これにより2代藩主となった津軽信枚は三成の三女辰姫を娶る事となり、さらに辰姫は豊臣秀吉の養女でもあった為、津軽家は磐石な基盤を築く事に成功しました。しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで再びその基盤が揺るぐ事になります。津軽家は為信と次男信枚が東軍、長男津軽信建は西軍として行動し、どちらが勝っても生き残るように画策し結果的に東軍が勝利し信枚が2代目となった訳です。しかし、家臣内では以前として豊臣派と徳川派が争い何度も起こり御家騒動まで発展、それを受けて信政が4代藩主に就任しています。信政の代には上記のよう家臣の争いも沈静化し、ようやく本格的な領内整備が行われるようになり、新田開発や治水事業、藩の特産物の発展などに尽力し弘前藩の藩政を確立した人物という位置づけになっています。しかし、晩年は失政が続いた為、真澄はこれらを揶揄したのかも知れません。では、何故、高照神社に信政が祀られているかというと、吉川惟足という江戸時代前期を代表する神道家で吉川神道の創始者、幕府神道方である吉川惟足に師事し、吉川神道の奥義と神号「高照霊社」を授けられていたからです。信政の晩年は高岡の地を弘前城を守護する霊地として定め、聖域として計画していましたが宝永7年(1710)に弘前城の城内に死没、跡を継いだ津軽信寿は遺言に従い、社殿と信政の霊廟を造営し神号「高照霊社」を掲げました。全くの想像ですが弘前城の東には徳川家康が祀られている弘前東照宮があり、高照神社は弘前城を挟んで西側に位置し対になっている関係です。さらに弘前城の城内の鎮守社には密かに豊臣秀吉の木像が祭神として祀られていた事から、徳川家に屈したものの、精神的には豊臣家を意識していたのかも知れません。その後も高照神社は歴代津軽家の庇護の下で社殿の造営や改修が繰り返され、荘厳な雰囲気が漂う境内が創り上げられました。現在でも高照神社の境内には江戸時代中期から後期にかけての社殿建築が数多く残され国指定重要文化財に指定されています(本殿が正徳2年:1712年、拝殿は宝暦5年:1755年の建築なので、これらは菅江真澄が高照神社で見た当時の建物と言えます)。

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