菅江真澄: 乳井神社

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乳井神社

菅江真澄: 乳井神社

【菅江真澄】菅江真澄が始めて毘沙門堂(乳井神社)を訪れたのは天明5年(1785)8月21日、単純に参拝しただけだったようで特に説明がなく、近くにあった白水と呼ばれる湧水を飲んで「おいしい」との感想を述べています。

次に菅江真澄が訪れたのは寛政8年(1796)5月20日、ここでは多門天王の堂と表記していますが多門天と毘沙門天が同義なので毘沙門堂の事です。真澄は多門天王の堂について、坂上田村麻呂が創建したとも(現在知られている歴史上では坂上田村麻呂が青森県に訪れた客観的な資料は見つかっていません)、承暦の帝(白河天皇)が蝦夷平定の祈願する為に創建したとも伝えられているとし、往時は寺運が隆盛し広大な境内を構えていましたが康平2年(1343)4月18日の火災で焼失し、その灰を集めて天狗平と呼ばれる地に埋め毘沙門塚を設けて塔婆を建立したそうです。承応3年(1654)弘前藩(藩庁:弘前城)3代藩主津軽信義が堂宇を再建、梵鐘は正徳9年(正徳は6年で終わっている事から誤りと思われます)に36569人の民衆から浄財を集めて藩主重信(津軽家の当主に重信は存在しない事から5代藩主津軽信寿の改名前の重信と思われます)の命で鋳造し奉納したものとし、御堂には嘉承山福王寺と金字で書かれた扁額が掲げられていたそうです。

【乳井神社】−乳井神社(青森県弘前市)は現在でも坂上田村麻呂が京都からの鬼門の地である当地に毘沙門天を勧請して創建したと信じられています。承暦2年(1078)に養寛和尚が福王寺を創建し、乳井神社(毘沙門堂)は福王寺の守護神となり歴代住職が祭祀を司ったようです。戦国時代の福王寺の住職乳井玄蕃は僧侶であるながら国人領主として周囲を席巻し「津軽法師三大名」や「沙門大名」などと呼ばれ注視されますが、永禄8年(1565)に大光寺城の城主滝本重行によって殺害されると大名家としての乳井家は没落しています(嫡男は津軽家の家臣として家名を存続)。江戸時代を通して弘前藩主津軽家の祈願所として崇敬庇護されていましたが、明治の神仏分離、廃仏毀釈などで仏教色が一掃され福王寺も廃寺、社号を「乳井神社」に改められ祭神として武甕槌命、経津主命、天手力男命の分霊が勧請されました。社殿は菅江真澄が訪れた時と同様に明暦元年(1655・※真澄は承応3年:1654年と表記)に再建されたもので弘前市指定有形文化財に指定されています。

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