菅江真澄: 種里八幡宮

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種里八幡宮

菅江真澄: 種里八幡宮(青森県鰺ヶ沢町)

【菅江真澄】菅江真澄が始めて種里八幡宮青森県鯵ケ沢町)を訪れたのは寛政8年(1796)10月27日。前日の26日に暗門の滝を見る為に長期間滞在した深浦宿を出立、種里村に着くと、村人から地名の由来を聞いています。それによると、昔、飢饉があり全く作物が育たず、村を捨て家屋などを焼き払うと、突如、門田から水が湧き出し、稲が大きく育ち豊作になったそうです。周辺では飢饉が続き稲作も育った無かった事から、この村で収穫した稲から種を取り、周辺の里に分け与えると不思議と稲が丈夫に育ち、この村を種里と呼ぶようになったと伝えられています。翌日の27日に八幡神社(現在の種里八幡宮)を参拝、その際、神官(別当?)である奈良氏から由来等を聞いています。それによると、長勝の君(弘前藩主津軽家の祖である大浦光信)が祀られている神社で、ある時、為信の君(弘前藩初代藩主)の霊夢に種里八幡宮を参拝するようにとの御告げがあり、雪の降る中にカンジキを履いて雪を掻き分けて参拝に訪れると、足元に触るものがあったので掘り起こしました。すると、石の法螺貝と石の鯰尾鉾が出現し、「この法螺貝を鳴らし、音が出れば戦に勝利し、出なければ戦を控えよ」との御告げがあり、為信が吹いてみると高らかに鳴り響き、その後の戦が大勝利になったそうです。為信は神意に感謝して白い幣を捧げると、石の法螺貝を神宝として祠に納めて篤く信仰したと伝えられています。

【種里八幡宮】−種里八幡宮の創建は大永3年(1523)、種里城の城主大浦光信により勧請されたのが始まりとされます。大浦氏(後の津軽氏)は戦国時代に南部家からの独立を図り形式には藤原氏の後裔としていますが、実際は南部家の一族である久慈氏出身と考えられ、南部一族は甲斐源氏の後裔である事から源氏の氏神である八幡神が勧請されたと思われます。光信が死去すると重臣だった奈良主水貞親が殉死、その後裔が神官として種里八幡宮の祭祀を司るようになります。その後、光信の御霊も勧請合祀され、江戸時代を通じて光信の後裔が立藩した弘前藩の藩主津軽家から崇敬庇護され、種里城の一角にある光信の霊廟は藩の聖地として特別な待遇を受けていました。境内は神域だった為、古木、大木が多く荘厳な雰囲気があり、津軽為信が手植したと伝わる大杉は鰺ヶ沢町指定天然記念物に指定されています。社宝も津軽家縁のものが目立ち、文化財も数多く所有しています。

【くろくまの滝】−種里城よりさらに山の奥に進むと日本滝100選に選定されている「くろくまの滝」があります。菅江真澄は「穴門の滝」を訪れ詳細な記述とスケッチを残している一方で「くろくまの滝」は何も記録を残していません。「くろくまの滝」は「穴門の滝」に負けず劣らずの名瀑である事から行っていないとは考えられず、弘前藩から問題のある3冊が没収されている事からその中に「くろくまの滝」の記述があったと思われます。あくまで推測ですが、一国一城令が発令した後も、種里城は津軽家発祥の地として管理整備され建物などの施設はないものの城郭としては維持されていた事からそこが問題視されたのかも知れません。

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