種里城(鰺ヶ沢町): 種里城は延徳3年(1491)、南部光信が久慈(現在の岩手県久慈市)から安東氏に備える為、鼻和郡に派遣され築城したのが始まりと伝えられています。安東氏は15世紀半ばに南部家に破れ一時津軽地方から撤退したものの、檜山城(秋田県能代市檜山)を本拠に北進し旧領である津軽奪還の為、度々兵を挙げていた為、南部家も対処に追われました。
光信は大浦氏に改称し、弟の一町田壱岐をはじめ家臣の大曲和泉、対馬某など36人の武将を率いて周辺豪族を懐柔させ勢力を広め津軽地方へ進出、文亀2年(1502)に大浦城を築いています。
光信は大浦城に養子である大浦盛信(新庄信春の次男)を配し、自らは種里城に留まり側面から盛信を支援し大永6年(1526)に種里城で死去します。盛信は遺言に従い光信の菩提を種里城の一角に埋葬し、菩提寺である長勝寺を創建、種里城には大浦盛純を配しました。
その後、大浦氏は津軽地方を統一し津軽氏に改称、天正18年(1590)の小田原の役では豊臣秀吉に臣従したことで大名として認められ、これを期に南部氏から独立し弘前藩が成立していきます。
種里城はその後も津軽氏発祥の地として重要視されていましたが元和元年(1615)一国一城令が発令されると本城である弘前城以外は廃城となり城内に埋葬された光信の御廟所は聖地として保護されました。しかし、明治維新後に執行された廃藩置県により管理者を失い種里城の遺構や廟所が荒廃しました。
種里城・縄張り: 種里城は赤石川上流の標高70m程の高台に築かれた中世の山城で本丸(主郭)は東西100m、南北300m、主殿は2間×3間の部屋が南北方向に4室あり突出部分が2箇所あったとされます。城域は天然の外堀に見立てられた赤石川と、その支流によって抉られた谷地が3方を囲う要害の地で、さらに背後には大柳沢山嶺が控えていました。
主郭の周りには大きくセツバヤシキ地区、下門前地区、上門前地区の3地区がありセツバヤシキ地区には主に家臣が配されていたと推定されています。下門前地区では30m四方の土塁や堀で囲われている郭が2箇所ある事から文献等で記載されている長勝寺(南部光信の菩提寺)と海蔵寺があったと推定されています。
上門前地区は間口が広く奥行きの無い郭が数多く存在し土坑30基、数多くの火葬骨などが発見されている事から、長勝寺や海蔵寺の墓地があったと推定されています。
種里城・遺構: 種里城の跡地は現在、郭の形状などが残る他、光信御廟所、光信が死去後殉死した奈良主水貞親(後裔は種里城の鎮守社で源氏の氏神である種里八幡宮の別当、神官を歴任)の墓があり、本丸附近に光信公の館(鰺ヶ沢町郷土文化保存伝習館:種里城や津軽家の資料が展示)が建設されています。
種里城は中世の山城の遺構で津軽家発祥の地として貴重な事から平成14年(2002)に国指定史跡に指定されています。又、城内にある板碑(供養塔:南北朝時代、安東氏関係)が鰺ヶ沢町指定文化財に、光信の御廟所を設けた際植えられたと伝わる杉(8本)、赤松(3本)が鰺ヶ沢町指定天然記念物に指定されています。
|