光信公御廟所(種里城)概要: 津軽氏の祖である津軽光信は大永6年(1526)、種里城で死去しました。享年67歳。跡を継いだ大浦政信は遺言により遺体に甲冑を着せ、剣や短刀を下げ、ほら貝を持たせた東南(辰巳)に向けて埋葬させ菩提寺となる長勝寺を創建しました。遺言は案内板によると「将師としての威厳を少しも欠くことなく甲冑を着し剣を帯び鎧透しの短刀をさげ腰に大螺をつけ立つにままの姿ぬして、巽に向けて埋葬せよ。これによって自分は神となって外国の敵が領内に侵入しないように万代までもここに留まりにらみをきかせていよう。」とあります。
慶長20年(1615)、一国一城令が発令されると弘前城以外の城は廃される事になり種里城も廃城、しかし、種里城は津軽氏発祥地で、始祖となる光信の御廟所があった為、その後も弘前藩の聖地として管理され、藩内で疫病が流行るなど災難があるとこの場で祈祷を行ったと言われています。
明治維新後の廃藩置県執行により弘前藩が廃藩になると管理者がいなくなり荒廃しましたが、近年になり整備が進みました。光信公御廟所や光信の死後殉死した奈良主水貞親(種里八幡宮の神官)の墓を含む種里城一帯は平成14年(2002)に国指定史跡に指定されています。埋葬場所には御霊屋や墓碑などは一切設けず白木の柵だけがあるだけでしたが、聖地とされ雑草が現在でも生えないと言われています。
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