深浦町: 森山城(茶右衛門館)

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概要・歴史・観光・見所

森山城(茶右衛門館)概要: 深浦町の森山海岸に位置する森山城(茶右衛門館)は案内板によると「 一般に「茶右衛門館」と呼ばれているが、同所は天文15年(1546)森山飛騨守季定がたてこもり、桧山安東氏と戦った場所であり、その後、慶長18年(1613)頃、小野茶右衛門が海賊の疑いをもたれて、大間越の笹森氏に討伐された場所でもあって、前後2回も戦場となった遺跡である。地形が特に要害堅固で、海上の見通しもきくところから、古くから館や城を構えるに適していたと思われる。海岸に突き出た岩山のところには、見張所がありその後方の台地に森山氏や小野氏の城塞がつくられ、周囲は木柵等でかこみ後方山手には空濠を作って防備したようである。」とあります。

森山城の築城年は不詳ですが古文書に文明5年(1470)に「森山館」の名称が記載されている事から少なくともこれ以前から存在していたと思われます。それによると文明5年(1470)に檜山安東政季が津軽地方に侵攻し藤崎館を襲撃、その後、長木氏が謀反を起こし長享2年(1488)に河北糠之野城(出羽国檜山郡、現在の秋田県能代市)で政季は自刃、その際、森山館の城主である森山飛弾守は政季の介錯を行った人物とされます。

江戸時代に入ると隣接する久保田藩に対する為、慶長9年(1604)に初代弘前藩(藩庁:弘前城)藩主津軽為信の家臣小野茶右衛門が配され森山城(茶右衛門館)も大改修されたと思われますが、慶長18年(1613)、茶右衛門は謀反の疑いをかけられ2代藩主津軽信牧の命で笹森勘解由などの追討軍が派遣され落城、そのまま廃城となりました。

謀反の理由は、海賊行為を行った、横暴を働いた、津軽騒動(慶長12年:1607年、為信の後継を、3男信枚と長男信建の嫡男・熊千代が争った騒動)に連座したなど諸説ありますが、改易を不服とした茶右衛門は森山城(茶右衛門館)に立て籠もり籠城戦を展開、堅城であった為、力攻めでは落城出来ず、水の手を絶ち長期戦によりようやく落城したそうです。

落城の際には茶右衛門の娘の千鶴姫と、恋人だった五島久三が来世で1つになる事を約束し城から身を投げたという悲運の伝説も伝えられています。森山城跡(茶右衛門館)は昭和51年(1976)に深浦町指定史跡に指定されています。

森山城(茶右衛門館):写真

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