三厩村:歴史・観光・見所

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概要・歴史・観光・見所
三厩村(竜飛岬)概要: 三厩村の名称の由来は源義経の北行伝説によると言われています。伝説によると義経は藤原泰衡に急襲される以前に既に平泉を脱出し蝦夷へ落ち延びたとされます。義経は蝦夷に渡る為津軽半島の突端である竜飛岬を目指し三厩の地を訪れましたが強風により足止めとなり困り果て、巨岩の上に守り本尊である観音像を厩石の上に安置させ三日三晩念じました。すると、白髪交じりの仙人が現れ3頭の龍馬を与えられ無事に蝦夷まで辿りつくことが出来たと伝えられています。その巨岩には3つの岩窟があることから3頭の龍馬の厩だったとされ三厩の由来となったそうです。その観音像を本尊として円空が創建したのが義経寺で、境内には廻船問屋や豪商が寄進した石鳥居や、絵馬、松前奉行が寄進した石灯篭などが現存し港町三厩の歴史を語っています。

江戸時代に入ると、奥州街道仙台以降は松前道ともいう。)の本州での最終宿場町(三厩宿)として重要視され、寛文4年(1664)には沖横目番所が設置され時期によっては人夫10人、馬3匹が常備されました。特に松前藩の参勤交代の際、宿泊や休息で利用した為、寛永12年(1635)には本陣や脇本陣(安保家)が設置され、海が荒れた際は数日足止めとなったと言われています。本陣は三厩村の村役人を歴任し廻船問屋として財を成した山田家(松前屋)で長い時は一週間以上の滞在を余儀なくされ費用も切迫しています。

松前藩は江戸時代当初は小泊(中泊町)に上陸し大間越街道から羽州街道、奥州街道を経て江戸に向うルートを採っていましたが、その後、三厩に上陸してそのまま奥州街道を西上して江戸に向うルートに変更しています。又、三厩湊は津軽海峡の天候回復・風待ち場として賑ったとされ蝦夷地からの物資を取り扱う廻船問屋で軒を連ね、蝦夷地の開発が進むと多くの幕府の役人や吉田松陰、瀬三樹三郎、松浦武四郎、伊能忠敬なども三厩を訪れました。

三厩村(竜飛岬):写真

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三厩町並み 三厩町並み 三厩町並み 三厩町並み

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