三厩宿: 津軽半島・竜飛岬・義経寺

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概要・歴史・観光・見所
三厩宿(外ヶ浜町)概要: 三厩宿は奥州街道の最期の宿場町で津軽半島の先端竜飛岬に接しています。竜飛岬(三厩宿)古くから蝦夷地と呼ばれた北海道との関係が深く、鎌倉時代初期には兄である源頼朝に追われた源義経が平泉からこの地まで逃れ三厩から蝦夷地に向ったと伝えられています。三厩の地名の由来も、義経を蝦夷地まで運んだ三匹の龍馬が岩に姿を変えた厩石があるからとされ、義経縁の観音像を安置する義経寺(寺宝である円空仏は青森県指定文化財・津軽三十三観音霊場第19番札所)も隣接しています。宿場の中心部には本陣、脇本陣が設けられ松前藩主や幕府の巡見使などが利用したそうです。厩石本陣には廻船問屋で名主を歴任した山田家がその任を務め松前藩主との関係が深かったとされます。一般的な大名は隔年で参勤交代が行われましたが、松前藩は蝦夷地にあり、最大の難所である津軽海峡越えがある為、元禄年間(1688〜1704)までは3年に一度、それ以降は5〜6年に一度と特例が認められ、当初渡航地だった小湊からより安全な三厩が渡航地となりました。本陣役を務めた山田家でしたが、本陣を維持する為に困窮したそうで、度々松前藩から借財し建築の営繕費用の一部賄ってもらっていました。宿場には海鮮や木材など蝦夷地との交流の重要拠点として重要視され廻船問屋などの商人の他、陣屋や湊番所などの施設が設けられました。

義経寺(三厩宿): 義経寺は江戸時代初期に三厩宿を訪れた、飛騨出身で全国を巡錫し独特義経寺(三厩宿)の仏像を彫刻して歩いた円空和尚により開かれたとされます。義経寺の由緒によると円空和尚が三厩宿に訪れた際、義経縁の厩石に安置されているを見付け、霊夢にその観音像から義経が蝦夷に渡った経緯を告げられたとされます。実際は越前に住んでいた住民が義経縁の仏像として、越前の三国湊の船頭に渡して三厩宿に運び込まれ、偶然訪れた円空が、義経の持仏と伝わる観音像を紹介され、その観音像を胎内仏とする観音像を彫刻して本尊としたそうです。当時の三厩港は北前舟の寄港地として日本海側の各港と交流があり、様々なものが持ち込まれた一例とされ、義経寺には数多く舟絵馬や廻船問屋が寄進した石造物や舟の錘として利用した石などが残されています。

竜飛岬(三厩宿): 竜飛岬は津軽半島の先端、外ヶ浜町三厩龍浜に位置しています。竜飛岬日本有数の強風地帯として知られ、その風に乗って竜が天高く飛び上がる様子から「竜飛岬」の名称の由来になった説もある程で、現在は風力発電が盛んに行われています。高台には日本の灯台50選に選定されている龍飛埼灯台があり、そこからは津軽海峡が一望出来、遠く北海道まで見渡すことが出来、景勝地として江戸時代末期には荒川秀山による小泊十二景にも数えられています。文人墨客も数多く訪れており竜飛岬には「川上三太郎句碑」や「吉田松陰碑」などが建立され、青森県出身の太宰治の「津軽」の舞台の1つにもなっています。変わった名所としては、車輌が通れない国道として知られる国道339号線があり、総延長388.2m、362段の階段がある事から階段国道の別称があります。竜飛岬は昭和50年(1975)に津軽国定公園に指定された際、その一部となっています。

三厩宿:写真

三厩宿
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