青森宿概要: 現在の青森市周辺は安潟と呼ばれる大きな潟でしたが寛永元年(1624)に青森湊が開かれると急速に開発が進み、弘前藩は寛文11年(1671)には御仮屋(当初は城郭として機能し城代が派遣されていましたが、一国一城令後は弘前城以外は廃城になった為、御仮屋となり元治元年:1864年以降は陣屋となった。)、貞享3年(1686)には町奉行所を設けるなど行政的、軍事的な拠点と位置づけました。特に津軽九浦(青森湊・蟹田湊・鯵ヶ沢湊・深浦湊・十三湊・今別湊・碇ヶ関関所・大間越関所・野内関所)として重要視され幕末には戸数3000戸を数え弘前藩最大の商業都市として発展しました。現在の本町が青森宿の中心部で多くの廻船問屋や豪商が軒を連ねた場所で突き当たりにある善知鳥神社が一般的には奥州街道の最終地点だったとされます(それ以北は松前道や外ヶ浜道と呼ばれていたようです。)。町も当初は浜町、本町、米町だけだったものが博労町、多葉香町、塩町、堤川端町、新町、寺町、鍛治町、大工町が次々の整備拡張され後には遊郭まで設けられました。現在は太平洋戦争の青森大空襲とその後の近代化により古い町並みは見る事が出来ませんが、青森県庁が設置された事で県内の中心都市として発展しました。
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