蟹田宿(外ヶ浜町)概要: 古くは砂鉄を産出したことで製鉄が盛んだった所でしたが、江戸時代に入ると材木の集積場となったとことで経済的に発展し上磯地域の中心的役割を持ちました。
蟹田湊は北前船の寄港地で、弘前藩(本城:弘前城)が定めた九浦(青森湊:青森市・鯵ヶ沢湊:鰺ヶ沢町・深浦湊:深浦町・十三湊:五所川原市・蟹田湊:外ヶ浜町・今別湊:今別町・碇ヶ関関所:平川市・大間越関所:深浦町・野内関所:青森市)に数えられるなど重要視され、蟹田宿には町奉行所や湊口御番所、御蔵屋敷など藩の施設が設置、幕末には蟹田台場を設けられ当地域の行政的、軍事的拠点となりました。
奉行所(外ヶ浜町指定史跡)は案内板によると「 蟹田に奉行所が置かれたのは、4代藩主信政の頃1669(寛文9)年とされる。蟹田奉行所の平常の職分はヒバ材の積出しの管理と町内の取締、御蔵屋敷の管理等であったが幕末になると台場警護の役も加わり銃器等も備えられた。 外ヶ浜町教育委員会 」とあります。
蟹田台場は文化8年(1811)に設置され、その管理として天保14年(1843)には町奉行所に大筒役3人、同心2人が増員されています。台場の戦力は五十目玉抱筒(1挺)・百目玉火石石火矢筒(1挺)・百目玉抱置筒(1挺)・木筒(3挺)・三百目玉置筒(1挺)。
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