十三湊遺跡(五所川原市)概要: 十三湊遺跡は青森県五所川原市十三湊古中道に位置しています。十三湊は室町時代後期に記された「廻船式目」で三津七湊[ 三津:安濃津(三重県津市)・博多津(福岡県福岡市)・堺津(大阪府堺市)・七湊:三国湊(福井県坂井市)・本吉湊(石川県白山市)・輪島湊(石川県輪島市)・岩瀬湊(富山県富山市)・今町湊(新潟県上越市)・土崎湊(秋田県秋田市)・十三湊(青森県五所川原市) ]の1つに数えられ奥州津軽十三湊として、全国的に見ても重要な港でした。
十三湊は鎌倉時代後期から蝦夷管領を賜った安東氏の本拠地で、安東氏は海運業に力を入れた豪族で、日本海側の各港と交流していただけでなく蝦夷と呼ばれる北海道から中国や朝鮮、樺太とも貿易を行い、後年"安東水軍"(ここで言う水軍とは戦国時代村上水軍や九鬼水軍などの海賊や海軍といった意味合いが薄いとされます。)などと称されました。
十三湊は中世から都市計画がなされた港町としても注目され中軸道路を中心に北側に大規模な土塁を設けその内側に安東氏の居館や家臣と思われる武家屋敷群が配置され南側には現在の町屋に当たる建物が軒を連ね、さらにその外側には神社、仏閣が並んでいたと考えられています。永享4年(1432)南部氏の侵攻の為安東氏がこの地を追われた際、十三湊の多くの建物が戦火を浴び大きな被害があったとされその後再興されたものの急速に衰退したとされます。
江戸時代に入り弘前藩(藩庁:弘前城)の重要港湾として整備されますが僅かに旧十三湊とずれた事で遺跡として保存状況は極めて良好に残され、全国的に見ても中世の重要港湾都市の遺構として大変貴重な存在となりました。
又、周囲には山王坊遺跡や浜の明神遺跡、中島遺跡、福島城跡など関連遺跡が豊富に分布している事も注目されています。十三湊遺跡は平成17年(2005)に国指定史跡に指定されています(平成18年・平成19年に追加指定)。
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