大間越宿概要: 大永年間(1521〜1528年)、出羽国出身の笹森勘解由左衛門建任が当地に入り開発したのが大間地域の集落的始まりとされ、その後笹森氏は天正年間(1573〜1581年)頃に大浦(津軽)氏に従い檜山安東氏の北上を抑える為の重責を担っています。江戸時代に入ると後裔が大間越奉行に就任するなど長く当地を支配し、特に慶長18年(1613)に津軽家の跡目相続争いである津軽騒動が起きると森山館(茶右衛門館)の城主小野茶右衛門が反体制派に加担し、笹森建修が粛清した事で名声を挙げています。江戸時代に入ると弘前藩と久保田(秋田)藩の藩境にあたる為に重要視され慶長8年(1603)、又は元和4年(1618)に正式に藩境が決定する直前に初代藩主津軽為信が大きく久保田藩よりに神明宮を創建し事実上の藩境として、その後追認させています。当地は戦国時代に秋田氏の領地が入り組んでいた地域で江戸時代に入り久保田藩佐竹家は常陸からの国替えで混乱していた間隙をついて弘前藩に有利にする為の処置と思われます。その後、この神明宮は御境明神として信仰の対象となり、社殿の造営や祭祀の費用などが藩費で賄われ往時は社運も隆盛したそうです(弘化2年:1845年の火災で焼失し現在は礎石と石祠のみとなっています)。大間越街道は江戸時代に津軽家の参勤交代で利用された為、大間越口がいわば弘前藩の玄関口でもありる事から大間越関所が設けられその重要性から津軽三大関所(大間越関、野内関、碇ヶ関関)に数えられました。寛文2年(1662)以降は参勤交代の経路が羽州街道に変更され重要性も薄れましたが、それでも津軽九浦(青森湊・蟹田湊・鯵ヶ沢湊・深浦湊・十三湊・今別湊・碇ヶ関関所・大間越関所・野内関所)に指定された事で、奉行所、御仮屋(旧小学校:現在の生活改善センター)も併設されていました。大間越地区に伝わる「大間越獅子舞」の発生起源は不詳ですが、江戸時代以前から継承されているもので、江戸時代の紀行家菅江真澄が寛政8年(1796)に大間越を訪れた際には「獅子舞」を見学し「この夜、年毎のたわむれなる雌鹿、雄鹿、中鹿の舞いさざめきのうちに夜はふけたり。この世の中の田の実りよかれのあそびのひとつぎかし」と記載しています。「大間越獅子舞」は平成7年(1995)に青森県指定無形民俗文化財に指定されています。同じく古式を伝える「大間越春日祭」も岩崎の鹿島祭りとして昭和59年(1984)に青森県指定無形民俗文化財に指定されています。
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