不浪寄八幡宮(平川市)概要: 不浪寄八幡宮の創建は不詳ですが人皇三十代敏達天皇の御代(572〜585年)、津軽郡全体が大規模な山津波(白鬚水)の発生により海のようになった際、八幡宮の霊験により被害を最小限で食い止めたことで不浪寄八幡宮と呼ばれるようになったと伝えられています。
その後も水が引かなかった為、舟を利用して参拝が行われ、舟が繋がれた場所は船岡森と呼ばれるようになり、坂上田村麿が東夷東征で当地まで進軍した際には霊験に感謝し自ら神像を彫刻し社殿を再建したとも伝えられています。
天正年間(1573〜1592年)に領主である津軽氏により社殿が再建され、江戸時代は引き続き弘前藩(藩庁:弘前城)の藩主となった津軽家の庇護になっていたと思われます。
古くから神仏習合し別当寺院として隣接する国上寺埠頭蓮性院が祭祀を司っていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により弘前八幡宮に一時合祀され、明治6年(1873)に復社し現在地に遷座されました。
又、この地が度々山津波や洪水などが起こり、まるで川が怒っている様から怒ヶ堰とも言われ碇ヶ関の地名の由来になったと言われています。社殿は入母屋、鉄板葺、平入、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、境内背後には小滝がありその前には不動明王と思われる石仏が安置され神仏習合の名残が感じられます。
社宝である本殿に安置されている不浪寄八幡御神像は平成18年(2006)に平川市指定文化財に指定されています。祭神:譽田別命 。例祭:旧暦8月18日。
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