追手門(弘前城)概要: 追手門は慶長15年(1610)に建てられたもので三の丸の枡形に位置しています。所謂櫓門形式の城門で、入母屋、本瓦葺き(鯱付き)、軒高11.7m、1層目正面は厚い板と太い柱で構成され、覗き窓や通用門が設けられ乳金物や八双など強度のある金物を使用しています。2層目は櫓と同様な機能があり正面には鉄砲狭間や物見があり実戦になると兵士が詰める場所になっています。江戸時代初期は大間越街道(西浜街道)が参勤交代の経路だった為、搦手門的な存在でしたが、寛文5年(1665)に羽州街道が参勤交代の経路になった為、事実上の大手門的な存在となりました。案内板によると「 弘前城には、築城当初10棟の城門があったとされているが、現在二の丸南門、二の丸東門、三の丸追手門、三の丸東門、四の丸北門(亀甲門)の5棟が残されている。弘前城の城門は、周辺を土塁で築き、内外に枡形を設けた2層の櫓門であるが、門の前面に特別の門(高麗門)などを設けていないことや、1層目の屋根を特に高く配し全体を簡素な素木造りとしていることなどから、全国の城門の中でも古形式の櫓門として注目されている。 弘前市 」とあります。弘前城追手門は江戸時代初期に建てられた櫓門建築の遺構として大変貴重なことから昭和12年(1937)に国指定重要文化財に指定されています。
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