本丸(弘前城)概要: 本丸は弘前城の中心で規模は東西約100m、南北約160m、城内唯一高い石垣で3方が囲まれ西側のみが岩木川に侵食された断崖を利用しています。東北地方では大規模な石垣が用いられている例は会津若松城(福島県会津若松市)や盛岡城(岩手県盛岡市)、小峰城(福島県盛岡市)などに限られ、弘前城や仙台城(宮城県仙台市)などは本丸や大手筋に限定され、久保田城(秋田県秋田市)や米沢城(山形県米沢市)や鶴ケ岡城(山形県鶴岡市)、新庄城(山形県新庄市)などは土塁が多く用いられています。本丸は藩にとっては重要な施設が設けられている場合が多く、籠城の際には文字通り最後の砦となった為、弘前城では二の丸からは下馬橋を渡り、馬出を通り、さらに枡形の櫓門を潜らないと入れないような仕組みとして計画され厳重な造りになっています。他の藩の本城でも弘前城と同様に本丸には主要な施設が設けられていましたが、山形城(山形県山形市)や上山城(山形県上山市)などは、築城当初の石高が高く、藩主の交代などで石高が低くなった場合、城郭を維持するのが困難となり、本丸が事実上放棄され2の丸や3の丸に藩主居館や藩庁を設ける場合もあります。又、仙台城(宮城県仙台市)や三春城(福島県三春町)、二本松城(福島県二本松城)は山城の形態を維持した為、山頂部の本丸には防衛能力のみを残し、麓に2の丸、3の丸を設けて行政や生活の中心としました。
弘前城の本丸には築城当初、5層の天守閣(寛永4年:1627年の落雷で焼失し、文化8年:1811年に3層の辰巳櫓を改修し現在の天守が築かれました。)や、3つの3層櫓(未申櫓・戌亥櫓・辰巳櫓)が配置され、藩庁と藩主の御殿(玄関・御用所・表座敷・中奥・大奥・台所・能舞台・武芸所)があり弘前藩の中心を成し、御金蔵(「牛こなかせ」と呼ばれる小高い場所にあり番所を設置して警備していた。)や御日記蔵(4代藩主津軽信政の代から明治維新までの弘前藩庁御国日記と呼ばれる日記を保管した蔵)、御宝蔵(青山と呼ばれた琵琶や、小野小町の琴などを収蔵)などの施設がありました。明治維新の廃藩置県や廃城令により3層になった天守閣以外は破却されましたが、御殿の基礎石などの遺構を見る事が出来ます。
未申櫓(本丸): 案内板によると「 ここは築城当時は五層の天守閣があったが、寛永4年(1627)に落雷で焼失したために、隅櫓が建設された。元禄7年(1694)に石垣を修理した際、不動明王の梵字を刻んだ石が出土し、最勝院に保存されている。櫓の方角を十二支で示したもので、未申は南西に当たる。」とあります。現在は建物は無く石垣のみとなっています。
戌亥櫓(本丸): 案内板によると「 城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、元禄3年(1690)に柿葺の葺替えが終了している。また同9年には、櫓下にあった番所の修復も行われおり、北の郭から櫓台下、本丸への通路があった。」とあります。現在は建物は無く石垣のみとなっています。
|