弘前城の「北の丸」には「館神」と呼ばれた鎮守社が創建され、案内板によると「 館神は、2代藩主信枚が太閤秀吉の木像を御神体として安置した場所でした。ここでは、藩主や城内の安全などにかかわる加持祈祷がとり行われており、ここへ出入りできたのは、藩主や神官やその家族などごく限られた人でした。平成11年〜12年度の発掘調査では、鳥居の礎石や本殿の柱穴、柵列跡等の遺構が確認されたほか、藩政時代の陶磁器や土器が多数出土しました。発掘された遺構は土により保護し、その上に鳥居の基石及び柱、本殿の柱、柵列の柱を表示しました。また、通路は遺構の配置や絵図を参考に設定しました。弘前市」とあります。
弘前城の城主である津軽家はれっきとした豊臣系の大名で、戦国時代に南部家の一族である久慈氏出身だった大浦為信は主家である南部家からの独立を画策し津軽地方を掌握し早くから豊臣政権に取入り天正18年(1590)の小田原の役に参陣し秀吉と謁見する事で大名として確立しています。この時、南部家は大浦為信を惣無事令に違反として訴えましたが、石田三成などの助力によりこの危機を脱しています。さらに、秀吉が近衛家の猶子だった事から、自ら近衛尚通の落胤と称し形式的には秀吉と義兄弟という間柄となっています。
又、長男である信建の烏帽子親は石田三成で、豊臣秀頼の小姓として忠節を尽くし、慶長5年(1600)の関が原の戦いでも西軍として行動しています。敗戦後は三成の次男・石田重成などの津軽逃亡を手助けし、この際、秀吉の木像が弘前城に持ち込まれたとも云われています。為信の跡を継いだ3男信枚は正室として石田三成の三女辰姫を迎えており、後に側室に格下げられましたが3代藩主を就任する津軽信義を儲けています。このように戦国時代から江戸時代初期にかけての津軽家は豊臣家と非常に繋がりが深い家系でしたが、関が原以降は親徳川家に転じた為、秀吉像を表立て祀る事は到底許される事ではありませんでした。その為、「館神」は表向きは稲荷神を祀る神社とし、稲荷神の背後の厨子に秀吉像を安置し決して厨子を開けないように言付けられました。実際、秀吉像が表立って知られる事になったのは明治維新後で、弘前城の廃城に伴い「館神」が解体された際に発見されています。現在、秀吉像は為信の菩提寺である革秀寺に安置されています。
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