弘前市仲町・町並み概要: 弘前城は慶長8年(1603)に初代弘前藩藩主津軽為信が計画し、2代藩主津軽信枚が築城した城郭で、城下町も城に付随して建設されました。当時の仲町付近は、弘前城の追手門(表門:亀甲門)に近接する重要な場所で、藩主が追手門から大間越街道を経て江戸に向う参勤交代のコースだった事からそれらを守備する為、主に重臣の子弟の住居が配置されました。
4代藩主津軽信政の時代になると寛文5年(1665)に羽州街道が整備された事で参勤交代では大間越街道から羽州街道に変更され、それに伴い追手門は弘前城の南側が正門となっています。
ただし、弘前城は四神相応の思想に基づいて築城された事から、隣接する一筋の町人町は北の丘陵に宿するという玄武に肖り、亀甲町と呼ばれ当地はそれらを守備する武家町として維持されました。
現在も仲町にはその当時の屋敷割が残り、さらに、道路に面する部分は板塀や塀垣(主にサワラ)、門、庭などが数多く現存し中には江戸時代からの武士の住居部分も見ることが出来ます。
中でも移築復元されている伊東家(弘前藩時代の藩医、中級武士)と梅田家(嘉永年間に建てられた中級武家屋敷)、現存している岩田家(中級武家屋敷、青森県県宝)が一般公開されています。
弘前市仲町(小人町、馬喰町、若党町の一帯:10、6ヘクタール)には武家屋敷主屋8棟・武家門20棟・土蔵1棟の伝統的建造物(建築物)と、板塀5軒分の伝統的建造物(工作物)、サワラ生垣79軒分の環境物件が残され、さらに「伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持している」の選定基準を満たしている事から昭和53年(1978)に国の重要伝統的建造物群保存地区(種別:武家町)に選定されています。
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