弘前市・土手町概要: 土手町は弘前城が完成した後の寛永年間(1624〜1645年)に町割された町で、主に商人町、職人町として計画されました。慶安2年(1649)に描かれた「弘前古御絵図」には64軒分の敷地割りが成され、弘前城から見ると南東に位置し土淵川の土手が町名の由来になったとされます。概ね一番町から松森町までの道筋が町内で、西端から土手町大橋(蓬莱橋)までを下土手町、土手町大橋から代官町角までを中土手町、代官町角から松森町までを上土手町と呼んでいたようです。当初は町名がありませんでしたが、承応2年(1653)に編纂された「津軽領道程帳」に「弘前土手町」が初見で万治2年(1659)に描かれた「津軽弘前古絵図」にも「土手町」の町名が記載されています。又、弘前藩の参勤交代で利用する主要街道である羽州街道の道筋にあたる為に商工業が発達し延宝6年(1678)には164軒の屋敷、宝永6年(1709)に編纂された「土手町支配町屋鋪改大帳」では町屋187軒、明治元年(1868)に編纂された「国誌」では戸数348軒となっています。職種も多種多様で様々な商人や職人が集まり大きく繁栄したそうです。その後、度重なる火災と近代化で古い町並みは失われましたが、今尚多くの店舗が軒を連ね弘前市を代表する商店街となっています。
|