鰺ヶ沢町(歴史)概要: 鰺ヶ沢町は古くから良港として知られ7世紀には阿部比羅夫がこの地を訪れ渡嶋へ渡るために白八幡宮の境内から日和を見たとの伝説が残っています。阿部比羅夫とは飛鳥時代の朝廷側の将軍で、特に日本海側を北上し蝦夷を討伐し北海道まで制圧したと云われています。鎌倉時代は十三湊の福島城(五所川原市)を居城にして日本海沿岸に大きな影響力をもった安東氏の勢力下に入り安東水軍の一翼を担っていたとされますが南部氏が台頭すると徐々に限定的なものとなります。
延徳3年(1491)には南部氏の一族である南部光信が種里城(国指定史跡)を築き周辺を支配します。光信は大浦氏を名乗り鰺ヶ沢町を拠点として津軽統一の足がかりを築き、その後、後裔は大浦城(弘前市)、弘前城(弘前市)と居城を移し津軽氏と名を変え弘前藩を立藩した事から種里城は津軽家発祥地と呼ばれるようになります。
種里城は一国一城令により廃城になりましたが津軽家の聖地として役人が派遣され跡地が管理されました。江戸時代に入ると鰺ヶ沢町は弘前藩が整備を行い藩内4浦(青森湊・十三湊・深浦湊、鰺ヶ沢)、9浦(青森湊、十三湊、深浦湊、鰺ヶ沢湊、今別湊、蟹田湊、碇ヶ関関所、野内関所、大間越関所)の1つとして重要視され鰺ヶ沢町奉行所や御仮屋(他藩では陣屋相当)が設けられました。
鰺ヶ沢湊は北前船の寄港地として多くの千石船が出入りし船問屋が軒を連ねたとされ延宝3年(1675)に記された「鰺ヶ沢港船着岸控」には、「商船七〇艘、御役船六〇艘、合わせて一三〇艘」と表記され当時の鰺ヶ沢町の繁栄が窺えます。中には能登屋清兵衛や山形屋弥五郎などの船問屋や、御用達、豪商を輩出しました。
又、豪商達は文化的にも大きく寄与し、特に俳諧を嗜む人が多かった事から墓碑には代表作の句が刻まれ鰺ヶ沢町の文化財になっています。自然にも恵まれ、ユネスコの世界遺産に選定された白神山地を控え、赤石川の支流の滝ノ沢には日本100名滝に選定されているくろくまの滝があります。
|