櫛引八幡宮

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概要・歴史・観光・見所

櫛引八幡宮(八戸市)概要: 櫛引八幡宮は青森県八戸市八幡字八幡丁に鎮座している神社です。櫛引八幡宮の創建は建久2年(1191)、南部家の祖とされる南部光行が糠部5郡(八戸・三戸・下北・鹿角・下北)の領主となった際、家臣である津島平次郎を使わせて甲斐南部郷の八幡宮御神体を勧請したのが始まりと伝えられています(この時は六戸の瀧ノ沢村に仮宮に遷座し、貞応元年:1222年に大同年間:806〜810年に坂上田村麻呂が勧請した八幡宮の小祠があった現在地に再遷座したとも云われています)。

櫛引八幡宮の奉斎者である南部家は清和源氏義光流(甲斐源氏)の加賀美二郎遠光の3男三郎光行が甲斐国巨摩郡南部郷(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に配され「南部」姓を名乗ったのが始まりとされます。

光行は文治5年(1189)の奥州合戦に従軍し大功を挙げ陸奥国糠部5郡が与えられたとされますが、南部家と津軽家はお互いの正当性を主張する為に戦国時代に家系図や家伝など大きく改変した可能性が高く、それを補完する客観的な資料が極端に少ない為、事実かどうかは不詳。一般的な解釈として糠部5郡という表記の仕方がおかしく、糠部郡の中の5郷の事を誇張する為に創作したのかも知れません。

その、糠部郡にしても宝治元年(1247)の宝治合戦(三浦氏の乱)後は北条執権家の得宗領になっている事から実際は一部の郷の地頭代だった事が想定され、あくまで甲斐国巨摩郡南部郷が本拠だったと思われます。鎌倉幕府の倒幕運動や南北朝時代初期の南部宗家の動きは不明瞭で、逆に根城南部家の当主南部師行は新田義貞に従い倒幕に功があり、南北朝の動乱では南朝方として行動し糠部郡の郡代に抜擢されています。

南部宗家である三戸南部家が奥州北部で地位が確立したのは南北朝時代の争乱が終結した南部守行の代と考えるのが自然と思われます。そういう意味では、櫛引八幡宮が何時頃創建されたのかは不詳とするのが正確で、「南部の総鎮守」と称され三戸南部家が篤く庇護した割には本拠である三戸では無く、根城南部氏の本拠である八戸に鎮座しているという矛盾があります。

櫛引八幡宮はその後衰退しましたが、建武元年(1334)南部師行が糠部郡の郡代となり根城を築い際、櫛引八幡宮を再興し社殿を再建、以降、根城南部家代々の祈願所として崇敬庇護されました。

南部師行の後裔である根城南部家が衰微すると三戸南部家が台頭し江戸時代に入ると盛岡藩を立藩、本拠を三戸城から盛岡城に移しても関係が続き社領1030石が安堵されました。

盛岡藩内では最高位にあたり、寛文4年(1664)に八戸藩が立藩した後も境内だけは盛岡藩の飛地として認められ藩の総鎮守として歴代藩主から崇敬庇護されました。

江戸幕府の巡見使の経路にも含まれており、天明8年(1788)の巡視に参加した江戸時代後期の旅行家、地理学者として知られている古川古松軒が参拝した当時の様子を著書である「東遊雑記」に記し、櫛引八幡宮の社宝が道中で最も優れていると評しています。

櫛引八幡宮は古くから神仏習合し甲斐から勧請した際、供奉してきた宥鑁が別当寺院である普門院を創建、南部家の庇護の下寺運も隆盛し、最盛期には坂本坊・本覚坊・竹内坊・藤本坊・桜林坊・吉水坊を擁し、別当は八幡氏、赤沢氏、小笠原氏と名称を変えながら櫛引八幡宮の祭祀を司りました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、郷社に列しました。

櫛引八幡宮社宝である大鎧は5領ありその内の赤糸威鎧兜大袖付(別名菊一文字の鎧:鎌倉時代作)と白糸威褄取鎧兜大袖付(卯の花威:南北朝時代作)は極めて貴重な事から国宝に指定され、残る3領も国指定重要文化財に指定されています。

現在の本殿は慶安元年(1648)に再建されたもので三間社流造、銅板葺、彫刻や木組など凝った造りになっていて極彩色で彩られています。

長床は櫛引八幡宮の拝殿として建てられたもので、入母屋、銅板葺、平入、桁行7間(13.9m)、梁間3間(5.9m)、正面1間向拝付。南門(神門)は四脚門、切妻造、銅板葺。

慶安元年(1648)に再建された櫛引八幡宮本殿、旧拝殿、南門、末社神明宮本殿、末社春日社本殿が江戸時代初期に建てられた神社建築の遺構として大変貴重な事から平成5年(1993)に国指定重要文化財に指定されています。

境内にある明治記念館は明治13年(1880)頃に建てられた旧八戸小学校講堂を移築したもので、貴重な事から平成3年(1992)に青森県重宝に指定されています。例祭: 旧8月14・15・16日 。祭神:八幡大神(誉田別命)。

櫛引八幡宮の文化財
・ 赤糸威鎧兜、大袖付 附:唐櫃−国宝
・ 白糸威褄取鎧兜、大袖付 附:唐櫃−国宝
・ 櫛引八幡宮本殿 附鰐−慶安元年−三間社流造−国重文
・ 旧櫛引八幡宮拝殿−慶安元年−七×三間−国重文
・ 末社神明宮本殿−慶安元年−一間社流造−国重文
・ 末社春日社本殿−慶安元年−一間社春日造−国重文
・ 櫛引八幡宮南門−慶安元年−櫛引八幡宮四脚門−国重文
・ 紫糸威肩白浅黄鎧 兜、大袖付−国重文
・ 白糸威肩赤胴丸(唐櫃入)兜、大袖付−国重文
・ 兜 浅黄糸威肩赤大袖二枚付−国重文

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
公式ホームページ
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板(由来)-櫛引八幡宮:

櫛引八幡宮:本殿・拝殿・神門・写真

[ 付近地図:青森県八戸市 ]・[ 八戸市:歴史・観光・見所 ]
櫛引八幡宮神橋越に見える神門(南門) 櫛引八幡宮南門(神門)から見た境内 櫛引八幡宮拝殿右斜め前方とその前に安置されている石燈篭 櫛引八幡宮本殿と透塀
櫛引八幡宮長床は旧拝殿の建物を利用したもの 櫛引八幡宮境内社である春日社、社殿は春日造 櫛引八幡宮神明宮は境内社で一間社流造 櫛引八幡宮銅製燈篭は意匠的にもかっこいい!

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