八戸市(歴史)概要: 八戸市は古くから開けていた地域で中居遺跡(縄文時代晩期:植物性遺物)と一王寺遺跡(縄文前期−晩期:円筒土器)、堀田遺跡(縄文時代の住居跡から宋銭が見つかった為ミネルヴァ論争に発展した。)の3つの遺跡で構成されている是川遺跡では様々な出土品が発掘され中でも「腕組する土偶」や「合掌する土偶」など個性のある土偶も見ることが出来ます。
建武元年(1334)南部師行が甲斐国から下向し根城を築くと根城南部氏として南朝の有力武将として東北地方北部に大きな影響力を与えました。南朝が衰退し南北が統一されると根城南部氏の勢力も限定的なものとなり、戦国時代には三戸南部氏に従属するようになります。江戸時代に入ると南部藩に属しましたが、今だ根城南部氏は半独立勢力として影響力を効しており寛永4年(1627)に遠野(岩手県遠野市)に移封となり根城は廃城となり、完全に三戸(宗家)南部氏の家臣となっています。
八戸市周辺は南部藩直轄となり新たに八戸城の改修と城下町が整備され当地方の行政、軍事、経済の中心に位置づけられました。寛文4年(1664)、南部宗家の家督争いにより南部直房が盛岡藩から2万石が分知され八戸藩を立藩、八戸城(八戸南部氏は城持大名ではなかった為、事実上陣屋構)には藩庁と藩主居館が設けられ城下町は藩都として繁栄し今日見られる八戸市の基礎となりました。明治4年(1871)に八戸藩が廃藩になると八戸県が発足しています。
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