野辺地町(歴史)概要: 野辺地町は古くから人が住み安かった地域とされ町内では多くの遺跡が縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡で同じ異なる時代の人達が同じ様な場所に住んでいたことが分かります。
文化的にも独自なものをもっていたとされ有戸鳥井平遺跡では日本最大級の板状立脚土偶(高さ32cm・肩幅17.5cm・胸部の厚み2.0cm・重さ1.3kg)が発見され、向田遺跡で発見された超薄型木製容器は高度の加工技術や漆塗りの技術、巻き貝の員殼が装飾されているなどの意匠的、文化的な要素でも注目されています。
野辺地町の町名の由来はアイヌ語の「ノンベチ−野中を流れる清い川」から付けられたとも言われ交通の要衝として重要視されてきた地域でした。
中世に入ると南部氏の支配下となり野辺地町は下北地方と津軽地方の分岐点として重要拠点の1つして一族である野辺地氏を配し周辺の中心的な役割として確立したと思われます。康正2年(1456)には下北半島を統一した武田信純が野辺地城を急襲し一時奪い取るなど所謂"蛎崎の乱"がおこり多くの被害を出しています。
江戸時代に入ると盛岡藩(藩庁:盛岡城)に属し、交通の要衝だけでなく北前船の寄港地として上方や蝦夷地などの物資が運び込まれ盛岡藩の北の玄関口として経済的にも重要視されました。
又、犬猿の仲であった弘前藩(藩庁:弘前城)との藩境に隣接していた為、軍事的にも重要で野辺地代官所を設け盛岡藩の拠点として整備され幕末には砲台が設けられ外国船などにも対しました。
明治元年(1866)には官軍側の弘前藩、黒石藩(藩庁:黒石陣屋)と奥羽越列藩同盟側の八戸藩(藩庁:八戸城)、盛岡藩との間に野辺地戦争が勃発し弘前藩兵の死傷者が40名以上にのぼる激戦となり多くの被害を出しています。
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