黒石市(歴史)概要: 黒石市の花巻遺跡は古くから知られた存在で江戸時代の紀行家菅江真澄が記した"追柯呂能通度"にも取りあげられています。
一ノ渡遺跡は組石遺構が2基、立石遺構は3基発見され秋田県の大湯環状列石や伊勢堂岱遺跡など北東北から北海道にかけての縄文巨石文化の一端を見ることが出来ます。甲里見遺跡では土馬や手捏ね土器、勾玉など律令祭祀遺物が発見され当時の黒石市ではすでに中央との繋がりがあり律令制度が浸透していたことが分かります。
鎌倉時代に入ると黒石市一帯は北条氏の支配下にあり得宗領の地頭代として工藤貞行が境松(黒石市境松)に城館を築き統治していたとされ、工藤氏はそのまま土着し南北朝時代まで周辺に影響力を持ちました。
室町時代になると浅瀬石城主千徳氏が支配し当初は南部一族として行動していましたが戦国時代に入ると津軽為信と同調し南部氏と交戦し勢力を広めました。慶長元年(1596)為信の裏切りにより津軽氏と交戦し浅瀬石城は落城し、江戸時代は弘前藩に属するようになります。
明暦2年(1656)に津軽信英が4代弘前藩主津軽信政を補佐したことで弘前藩から5千石が分地され黒石領が発足しています。
文化6年(1809)8代領主津軽親足の代に6千石が加増され1万石(当初5千石だった黒石領は2代信敏の代に弟津軽信純に1000石を分与し4000石になっていた。)となり諸侯に列し改めて黒石藩を立藩、黒石に陣屋を構え、現在の黒石市に見られる城下町を整備します。
現在の黒石市中心部の町並みはその時形成されたもので、切妻、妻入りの町屋の正面には雪国特有の「こみせ」が取り付けられ独特な町並み景観を作り出しています。黒石市の「こみせ通り」は日本の道百選に選定され、平成16年(2004)に黒石市歴史的景観保存条例を制定、さらに平成17年(2005)に重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
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