十和田市(歴史)概要: 十和田市は中世、南部氏の勢力下にあり奥瀬氏や沢田氏、切田氏、米田氏、伝法寺氏、赤沼氏、三日市氏といった南部氏と繋がりが深い諸氏達が館を構え支配していました。天正19年(1591)九戸南部氏が小田原の役に参陣できなかった事から三戸南部家に組み込まれ、それを不服とした九戸氏が乱を起こします。欲に言う"九戸の乱"は十和田市内も戦場となり前哨戦となる伝法寺館攻防戦が3月13日に九戸勢が夜襲をかけることで始まりました。結果的には夜襲は失敗に終り、九戸城に立て籠もった九戸氏も善戦むなしく豊臣軍6万5千の兵により露と消えました。
江戸時代に入ると十和田市は南部藩に属し、五戸・七戸代官所の支配となりました。十和田市には奥州街道が整備され藤島宿と伝法寺宿の2宿が宿場町として開かれ半月交代で継立業務を行っていました。現在の十和田市中心部は土壌や偏西風、上水の関係で広大な荒地でしたが安政2年(1855)、南部藩士新渡戸傅によって開拓が進められ稲生川の開削や奥入瀬川の引き込みなどが計画され昭和41年(1966)にようやく完成、大きな収穫を上げるにいたりました。現在見られる基盤の揃った町並みはそうした歴史があり"十和田市官庁通り"は日本の道100選に選定されています。又、十和田湖や奥入瀬渓流など全国に誇る観光地を有し自然豊かな地域と言えます。
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