弘前市(歴史)概要: 弘前市は古くから開けていた地域で縄文時代後期から晩期前半の十腰内遺跡では環状列石や遮光器形土偶が発見され大森勝山遺跡では日本最大級と言われた大型竪穴住居や環状列石、後期旧石器時代のナイフ形石器が発見されています。砂沢遺跡では水田跡や炭化米が発掘され弥生時代に弘前市周辺で米作りが行われていたことがわかっています。
中世に入ると鎌倉幕府の御家人だった平賀の大光寺城主曽我氏の勢力下に入り弘前市内では石川城や堀越城などが築かれ領土が経営されました。鎌倉幕府が滅ぶと曽我氏を頼り安達高景と友名越時如が津軽に逃れ、石川城を巡り周辺豪族と交戦状態となり2ヶ月後落城しています。その後も曾我氏の支配が続きますが室町時代後期に北進を続けた南部氏に制圧され天文2年(1533)には南部氏一族である石川高信を石川城主にすえて弘前市を含む津軽地方の統治を任せます。
一方、日本海側の安東氏を押える為、一族である大浦氏を種里城に配しましたが文亀2年(1502)に大浦城を築き津軽地方へ進出しの足がかりを築き後裔の大浦為信は主家である南部家に反旗を翻します。元亀2年(1571)為信は石川城を急襲し石川氏を破ると南部領に侵攻し、堀越城を本拠に津軽統一を目指します。為信は小田原の役で豊臣秀吉に謁見したことで津軽3郡の領地が安堵され念願の南部家からの独立が正式に確立しました。
関ヶ原の合戦では基本的に東軍として行動したものの津軽家が石田三成との関係が深く(2代藩主となった為枚の側室は三成の娘とも言われています。)不穏の動きが1部見られたということで2千石の加増に留まり、為信が死去すると長男信建の息子である熊千代と為信の三男信枚との家督争い(津軽騒動)が勃発し内乱となります。結果的に信枚が勝利し人心を一新する為、新たに弘前城を築城し正室に徳川家康の養女満天姫を迎え親藩的な扱いを受けることになります。
弘前城は外様大名で石高が低い割りには5層の大天守と3重の堀を構える壮大なもので幕府からは蝦夷への抑えと本州最北端にあたる北方の守りとして重要視されていたことがわかります。
又、城下町も同時に建設され今日見られる弘前市の原形がこの時に作り上げられ、特に弘前城から見て鬼門(北東)の方角には弘前八幡宮や最勝院を配し、裏鬼門(南西)の方角には藩主の菩提寺である長勝寺を配するなど風水思想や四神相応、陰陽五行思想などが城下町の建設時に盛り込まれ現在にも息づいています。
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