高照神社(弘前市)概要: 高照神社は青森県弘前市高岡神馬野に鎮座する神社です。高照神社の創建は不詳ですが古くから春日四神(武甕槌命・伊波比主神・天児屋根命・比売神)を祀る小祠があったと伝えられています。
津軽家は南部家の一族である久慈氏出身とされ、本来は源氏(南部家の祖)の氏神、八幡神を崇敬していましたが、南部家からの独立に際し、自らの祖を藤原氏とした為、藤原氏の氏神、春日神(春日大社の分霊)を祀る必要性があったと思われます。
特に弘前藩4代藩主津軽信政は吉川神道の創始者である吉川惟足に師事し、高岡の地に社殿を再建する計画を立てました(高岡の地は弘前城から西方にあたる為、東西軸に社殿を配置すれば弘前城を見下ろせる位置関係となっています)。
しかし、信政は宝永7年(1710)に計画半ばで弘前城で死去した為、5代藩主津軽信寿が引き継ぐ事になり、信政の遺言に従い神式の霊廟を小祠の背後と定め吉川惟足から授けられた神号「高照霊社」を社号としました(享保15年に高照神社と改称)。
藩主を祭る神社は明治時代以降、各地で盛んに創建されましたが、江戸時代中に創建される例は日光東照宮(栃木県日光市)は例外としても高照神社の他、会津藩初代藩主保科正之の土津神社(福島県猪苗代町)や長岡藩3代藩主牧野忠辰の蒼柴神社(新潟県長岡市)など例が少なく、同じ神道でも加賀藩主前田家や岡山藩主池田家、鳥取藩主池田家などは墓碑が神式の亀趺墓を採用し人里離れた霊地に墓域を構えていますが神社という形式は採用しなかったようです。
以来、高照神社は津軽家の崇敬社として庇護され5代藩主津軽信寿が正徳2年(1712)に本殿を造営したのを筆頭に7代津軽信寧は宝暦5年(1755)拝殿、9代津軽寧親は文化7年(1810)に随神門、文化12年(1815)に廟門を建立しています。
境内の伽藍配置は吉川神道の教えに基づき東西方向に建物が一直線に並ぶ独特な配置としています(会津藩初代藩主保科正之も神式の霊廟で土津神社の境内に葬られましたが、社殿は戊辰戦争の兵火で焼失した為、現存社殿としては全国唯一と言われています)。
寛政8年(1796)には江戸時代後期の紀行家で民俗学の祖とも云われる菅江真澄が岩木山神社と共に当社を訪れ、当時の境内の様子や津軽信政の事績を記録しています。明治4年(1871)に新たに春日4神を勧請し、明治10年(1877)に藩祖津軽為信を合祀、明治13年(1880)県社に列しています。
高照神社には現在でも多くの建物が残されており本殿、西軒廊、中門、東軒廊、拝殿、幣殿、随身門、廟所拝殿、廟所門、津軽信政公墓、太刀(銘友成作・平安末〜鎌倉初期)、太刀(銘真守・鎌倉時代)が国指定重要文化財に指定されている他、津軽信政着用具足、高照神社刀剣類(11口)、高照神社奉納額絵馬(54枚)が青森県重宝に指定され数多くの社宝が弘前市指定文化財となっています。
境内のシダレザクラは江戸時代中期に信政が大星神社の社殿を再建した際に大星神社の境内に植樹したものと同種で、伝承によると信政が当地にも植樹したと伝えられるもので、推定樹齢300年以上、樹高16m、幹周2.76m、貴重な事から弘前市指定天然記念物に指定されています。祭神:天児屋根命、武甕槌神、伊波比主神、比喜大神、津軽為信(弘前藩初代藩主)、津軽信政(弘前藩4代藩主)。
高照神社の社殿(国指定重要文化財)
・ 本殿−正徳2年−三間社入母屋造、千鳥破風、こけら葺、1間唐破風向拝
・ 西軒廊−正徳2年−切妻、こけら葺、桁行4間、梁間1間
・ 中門−正徳2年−平唐門、こけら葺、一間一戸
・ 東軒廊−正徳2年−切妻、こけら葺、桁行4間、梁間1間
・ 拝殿−宝暦5年−入母屋、こけら葺、正面千鳥破風、3間軒唐破風向拝付
・ 幣殿−正徳2年−切妻、こけら葺、桁行3間、梁間2間
・ 随神門−文化7年−切妻、鉄板葺、三間一戸、八脚単層門
・ 廟所拝殿−正徳元年−切妻、銅板葺、桁行3間、梁間2間
・ 廟所門−文化12年−切妻、銅板葺、一間一戸
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