弘前八幡宮

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概要・歴史・観光・見所
弘前八幡宮概要: 弘前八幡宮の創建は平安時代初期、坂上田村麻呂が東夷東征の際、岩木村に宇佐八幡宮の分霊を勧請し戦勝祈願をしたのが始まりと伝えられています。大浦光信が種里城(鯵ヶ沢町)から大浦城(旧岩木町)に居城を移すと八幡宮が大浦城から見て北東に位置していたことから鬼門鎮護の鎮守社として崇敬社となり、天正18年(1590)の火災で焼失すると大浦為信(後の初代弘前藩主)が社殿を再建しています。慶長16年(1611)、弘前城の完成に伴い2代藩主津軽信牧が居城を移した後、慶長17年(1612)に弘前城から見て北東の位置である現在地に遷座し鬼門守護、弘前総鎮守の格式を得ています。津軽家は源氏の後裔である南部家の一族出身だった為(南部家から独立後は藤原氏の後裔を自称)、源氏の氏神である八幡神を、種里城、大浦城時代も信仰しています。又、弘前城は陰陽五行、四神相応の思想により縄張りした為、鬼門にあたる弘前八幡宮はその一翼を担い、社領30石が寄進され、社殿の造営や修繕、祭祀に至るまで藩費によって賄われ、天和2年(1682)から藩主在国の隔年に行われる神輿渡御の祭礼は盛大を極め藩内から多くの神官が集まり各町内から山車が繰り出されたと言われています。当初から神仏習合し、弘前八幡宮の別当には領内の寺社総取締(僧録)である最勝院があたり、参道の東側に6ヵ寺、西側に6ヵ寺、合計12ヵ寺の塔頭寺院が軒を連ねていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により別当だった最勝院から独立し、最勝院は大円寺の境内へ移転、塔頭寺院12ヵ寺は廃寺となり、境内も大幅に縮小され、明治6年(1873)に郷社、明治13年(1880)に県社に列しています。現在の本殿、唐門は慶長17年(1612)に建立されたもので本殿は三間社流造、厚板葺型銅板葺、組物など細部には極彩色で彩られ蟇股や扉などの彫刻には桃山時代の工法が用いられています。唐門も随所に桃山文化が見られる建物で入母屋、こけら葺、四脚門、弁柄色塗り、軒唐破風や四隅の反り、小組格天井などに特徴があります。弘前八幡宮本殿(附:棟札3枚:宝暦5年・寛政3年・文化7年)、唐門(附:棟札2枚:文化7年・嘉永4年)は数少ない江戸時代初期の社殿建築の遺構として大変貴重な事から昭和11年(1936)に国指定重要文化財に指定されています。 祭神:誉田別命、息長足姫命、比売女神。例祭:8月1日。

弘前八幡宮の文化財
・ 本殿−慶長17年−三間社流造、銅板葺、極彩色−国指定重要文化財
・ 唐門−慶長17年−入母屋、こけら葺、四脚門、軒唐破風−国指定重要文化財
・ 石造狛犬−寛文4年−斉藤平左ェ門吉林作−弘前市指定文化財
・ 板碑−鎌倉末期〜室町初期−安山岩、胎蔵界大日如来種子−弘前市文化財
・ 大太刀−慶長6年−藤原國路作、刃長107.8cm−弘前市指定文化財
・ 大太刀−文化元年−橘繁宗作、刃長82.5cm−弘前市指定文化財
・ 大薙刀−慶長6年−藤原國路作、刃長91.2cm−弘前市指定文化財
・ 小野家墓所の板碑−鎌倉末期〜室町初期−阿弥陀如来種子−弘前市文化財
・ 木造素木龍頭−伝:津軽信枚寄進−最高部位22.7cm−弘前市指定文化財
・ 木造不朱塗獅子頭−長さ34.8cm、最高部位21.8cm−弘前市指定文化財
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弘前八幡宮:写真

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