求聞寺

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概要・歴史・観光・見所

岩木山求聞寺(弘前市)概要: 岩木山求聞寺は青森県弘前市百沢寺沢に境内を構えている真言宗智山派の寺院です。求聞寺に建立された石仏群求聞寺の創建は寛永2年(1625)、弘前藩2代藩主津軽信枚が、藩主の跡目争いで荒廃した領内の安寧を憂い修業(求聞持法と呼ばれる荒行)を行い、念願成就した寛永6年(1629)に虚空蔵堂を建立し虚空蔵菩薩を安置、女人禁制にしたのが始まりとされ、本寺が百沢寺だった為、百沢寺求聞持堂と呼ばれました。信枚は初代藩主津軽為信の3男で、本来ならば兄である信建・信堅が宗家を継ぐはずでしたが、両者とも為信より早世した為、信枚が2代藩主に就任しました。しかし、慶長13年(1608)に信建の嫡男熊千代を旗頭として御家騒動が勃発し、改易寸前にまで陥りました。

津軽家は元々親豊臣派であった為、一転して徳川家に転じ、信枚は幕府に大きな影響力のあった天海大僧正に師事し天台宗に改宗し、正室だった石田三成の娘である辰姫を側室に降格させ、徳川家康の養女満天姫を正室として向かえ、親藩に先駆けて東照大権現(徳川家康の御霊)を勧請し弘前東照宮を造営し、津軽家の地位を確立しました。

寛永6年(1629)は信枚にとって晩年にあたり一応藩政が安定した事が虚空蔵堂の創建に繋がったと思われます。

求聞寺の本寺である百沢寺は津軽家の崇敬社で津軽一之宮である岩木山神社の別当寺院として寺運が隆盛し寺領400石、塔頭10ヵ寺、津軽真言五山に数えられる大寺院となりましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により廃寺となり、寺院として独立を果たした求聞寺が津軽三十三観音霊場第三番札所を継承しています。

明治9年(1876)に火災により信枚が造営した虚空蔵堂と信枚が寄進した本尊を焼失し明治26年(1893)に再建(現在の本堂は昭和39年:1964年に改築)再興されています。

津軽三十三観音霊場第3番札所(札所本尊:十一面観世音菩薩・御詠歌: 父母の 菩提を願う 百沢寺 仏といわれ 神といわれん)。津軽八十八ヶ所霊場第66番札所(札所本尊:虚空蔵菩薩・御詠歌:野をも過ぎ 里をも過ぎて 百沢の 仏の誓 重きこの寺)。津軽七福神霊場(大黒天)。津軽弘法大師二十三ヶ所霊場第9番札所。津軽一代様(干支:丑寅・守り本尊:虚空蔵菩薩)。山号:岩木山。宗派:真言宗智山派。本尊:虚空蔵菩薩。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-岩木町・岩木町教育委員会

求聞寺:本堂・境内・写真

求聞寺参道石段と両脇の大木 求聞寺本堂正面と狛牛と獅子 求聞寺境内に設けられた観音堂 求聞寺鐘楼と吊り下げられた梵鐘

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