旧百沢寺庫裏(青森県弘前市)

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岩木山神社

岩木山神社(長野県弘前市・社務所)
岩木山神社(青森県弘前市)概要: 岩木山は津軽平野に聳える独立峰で、麓には大森勝山遺跡(国指定史跡)をはじめ数多くの縄文時代の遺跡が点在している事からも、当時から自然崇拝として崇められてきたと思われます。当初は岩木山自体が御神体として祭られていたと思われますが、時代が下がると形あるものに信仰が遷り、岩木山神社青森県弘前市)として形成されたと思われます。しかし、岩木山神社の成立時期は諸説あり、どれが真実か、又、全てが間違いなのかは誰も判りません。一番古いものとしては、神話の時代に大己貴命が当地に降臨し180人の子供を養育していたそうです。ある時、田光沼の主である龍女が、沼の宝である珠(国安珠)を大己貴命に献上すると龍女を大変気に入り「国安珠姫」と名付けて夫婦となりました。その後、大津波で津軽平野が岩木山を残して水没すると、山頂に宮を構えて国常立命、大元命、国安珠姫の3柱を祭ったとして、これを津軽一宮岩木山神社の起源としています。しかし、上記の3柱は現在の岩木山神社の祭神では無く、祭神である顕国魂神が大己貴命(大国主神)の別名であるとも云われていますが、それも定かではありません。正し、岩木山の山頂は岩木山、鳥海山、岩鬼山の3カ所に分かれ、それぞれ異なる神が祭られているという形式は守られています。

次に古いのは平安時代で、征夷大将軍である坂上田村麻呂が当地まで進軍し、岩木山に巣食う姦鬼を成敗した後に岩木山の山頂に坂上刈田麿命(坂上田村麻呂の父親)を祭る奥宮本宮を創建、麓に奥宮本宮を守護する鳥海山永平寺景光院と巌鬼山西方寺観音院(現在の巌鬼山神社)、岩木山百沢寺光明院の三寺を創建したそうです。その中の百沢寺が岩木山神社と神仏習合し別当寺院として隆盛を極めた寺院とされます。現在でも岩木山神社の祭神の1柱に坂上刈田麿命が祭られている事から一応の辻褄があいますが、史実としては坂上田村麻呂が蝦夷討伐した最北端は岩手県とされている為、青森県で活動した可能性は極めて低いと思われます。

民間の伝説によると、この地に三姉妹の神が降臨し、何れも秀麗な山容である岩木山神社の御神体になろうとしましたが、三女が抜け駆けをして岩木山神社の祭神となり、残された2人の女神は怒りと失意の中で、長女は小栗山神社、次女は猿賀神社の祭神として収まったと伝えられています。現在の岩木山神社の祭神で、宗像三女神の1柱の多都比姫神に対応する伝承と思われますが、古事記、日本書紀第二の一書では3女として描かれているものの、日本書紀本文・第一の一書・第三の一書では次女で、現在の宗像大社(福岡県宗像市)では次女として中津宮に祭られています。隣の県である岩手県も同様な伝説があり、こちらも三女が2人の姉を出し抜き一番秀麗な山に収まっています。

一番新しい由来は平安時代末期の安寿姫と厨子王の姉弟の伝説です。簡略すると、陸奥国司である磐城判官正氏は、出世の恨み妬みから嘘の証言により筑紫に流され、妻と二人の子供である安寿姫と厨子王が父親を慕って追いかけるという話です。父親の元に辿り着く前に、3人は人買いに騙され、母親は佐渡島、姉弟は丹後由良湊の山椒太夫の奴隷となり果て、その苦難を抜け出すべく安寿姫が命がけで厨子王を逃がし自分は命を落としていましいます。しかし、厨子王は仏の力を借りて復権を果たし父親と同じ陸奥国司に抜擢され、騙した人買いや山椒太夫に復讐を果たします。その後、岩木山の山頂に安寿姫と厨子王が祭られるようになったのが岩木山神社の起源と伝えられています。こちらの由来も伝説の域を出ませんが、一般的には陸奥国司は現在の福島県いわき市を拠点とした岩城氏や、福島県の中通りの伊達郡の説話が題材として物語風に改変されたと考えられており、津軽とは関係が薄いと思われますが、少なくとも江戸時代には既にこの伝説が津軽に浸透し、当地を訪れた菅江真澄や古川古松軒がこの由緒を紹介しています。

以上のように岩木山神社には様々な伝説がありますが、記録として明確なものは安土桃山時代の天正17年(1589)に岩木山が大噴火を起こし、それが原因で岩木山神社が大破し、当時の領主である津軽(大浦)為信が社殿の再建を行った事が最初で、極端に言えば、これより以前の岩木山神社の歴史は不明瞭という事になります。これ以後は弘前藩主となった津軽家が津軽一宮として篤く信仰して大きく繁栄する事になります。

岩木山神社は記録で明確になった当初から仏教色に強い神社で、基本的には別当寺院であるはずの百沢寺が前面に出て、岩木山の3つの頂には阿弥陀如来・薬師如来・観音菩薩をそれぞれ安置されていました。現在の岩木山神社は、麓に設けられた百沢寺の堂宇群で、現在の本殿には三所大権現が祭られ、現在の拝殿は百沢寺の大堂として様々な仏像が安置、随神門(楼門)は山門として十一面観音像と五百羅漢像が安置され、社務所は庫裏だった建物が転用されています。明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈は青森県でも徹底され仏教色が強い仏像や仏具などは津軽家の菩提寺の1つ長勝寺(青森県弘前市)や津軽家の祈願所の1つ最勝院(青森県弘前市)、大鰐町の専称院に遷されています。

岩木山神社社務所は弘化2年(1845)の建築で、木造平屋建、入母屋、茅葺、平入、建築面積403.2u、江戸時代後期の寺院庫裏建築の遺構で、神仏習合時代の岩木山神社の歴史的遺産して貴重な事から平成23年(2011)に長野県の県宝に指定されています。

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