蓬田城(蓬田村)概要: 蓬田城は青森県東津軽郡蓬田村大字蓬田字汐越に位置した城郭です。蓬田城は大きく大舘と小舘に分かれ、小舘は鎌倉時代の嘉禎4年(1238)に築かれとされます。
南北朝時代に大舘部分が拡張され、室町時代中期には十三湊にある福島城を拠点として津軽地方に大きな影響を及ぼした安東盛季の弟とされる潮潟通貞が城主として配されています。嘉吉2年(1442)、南部家の侵攻により盛季が蝦夷地に逃れている事から蓬田城も前後して落城、あるいは放棄された思われます。
南部家の勢力圏に入ると家臣である奥瀬建助が城主となり当地を支配しました。ただし、南部家は津軽半島の支配に積極的ではなかった為、安東家の一族が再び支配する事となり、その後、平将門の後裔を自称する相馬家が何らかの理由に蓬田に移り住み文明4年(1472)に相馬則政が蓬田城の城主となり地名に因み蓬田氏を名乗り、後裔が100年余りの間当地を支配します。
蓬田氏(相馬氏)は浪岡城主北畠家の有力武将だったようで、蓬田太三郎が家臣団に名を連ねており、天正13年(1585)に大浦城(弘前市)の城主津軽為信の侵攻により油川城が落城すると、蓬田越前は蓬田城を明け渡し、南部領に落ち延びています。津軽家は蓬田城を利用しなかったと見られその後廃城になっています。
蓬田城は標高8〜15mの小丘陵に築かれた平城と平山城の中間位の城で、当時は海岸が内陸まで追って先端の大きな出丸には船着場があったと想定されています。城域は大舘が東西約1km、南北約800m、小舘が東西約700m、南北400mと広大で随所に郭や出丸、水堀、空堀、土塁などを配していました。
中でも北側の堀は幅が15〜20m、深さ3m、長さ300m程もあり国指定史跡に指定されている浪岡城(青森市)に匹敵するとされています。現在蓬田八幡宮が鎮座している平場が旧本丸と推定される場所で、その奥地には蓬田氏(相馬氏)が信仰していたと思われる宗像神が祀られている弁財天宮が鎮座しています。
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