善知鳥神社(青森市)概要: 善知鳥神社は青森県青森市安方に鎮座している神社です。善知鳥神社の創建は第十九代允恭天皇の時代に鳥頭安潟の夢枕に高倉明神が立ち御告げを受けた事から祠を建立し宗像三神(市寸嶋比賣命・多岐都比賣命・多紀理毘賣命:海洋神、航海安全の神とされます。)を勧請したのが始まりと伝えられています。
その後、荒廃しましたが大同2年(807)に坂上田村麻呂が東夷東征の際再建され、以来、歴代領主から崇敬されました。伝承の域を出ませんが、源義経が命の危険を察し、奥州平泉を脱出し蝦夷地を目指した際、当地を通過し善知鳥神社を参拝したと伝えられています。
伝説によるとスサノオノミコトに退治された八岐大蛇は九頭龍に姿を変え蝦夷白竜の岳に隠れ、瀬織津姫を食い込殺そうと図っていました。九頭龍は津軽海峡を越え善知鳥安方(善知鳥神社境内)を新たな隠れ家にしていた際、討伐に来た島津大人に切りつけられると、現在の新潟県の越の洞穴に逃げ込み、そこから妙高山を超えて信州の戸隠山まで敗走しそこで討ち取られたと伝えられています。現在、九頭龍は戸隠神社の奥宮の前に鎮座している九頭龍神社に祭られています。
中世は領主である南部家から庇護され社殿の造営や改修が行われ、江戸時代に入ると弘前藩(藩庁:弘前城)藩主津軽家の祈願所となります。
善知鳥神社は寛永18年(1641)には3代藩主津軽信義の命で青森町奉行森山蔵之助が社殿を再建し社殿の改修には藩費で賄われ、青森湊を利用する船舶から境内の社叢が青々として見え、海運の目印になっていた事から「青森」という地名の由来になったとされます。
天明8年(1788)には江戸時代の紀行家で民俗学の祖とされる菅江真澄も当社を参拝に訪れ「青森」の地名に当社が関わった事を示唆しています。
江戸時代当初の青森町の鎮守は毘沙門堂でしたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により廃堂になった為、善知鳥神社が明治元年(1868)に青森町鎮守神に命じられ明治3年(1873)に郷社、明治6年(1876)に県社に列し明治40年(1907)に幣帛供進社に指定され神輿渡御など青森町の祭礼の中心となっています。
又、棟方志功縁の神社でもあり、幼少の頃は格好の遊び場、青年時のスケッチの場、結婚式場も当社で挙げており、社殿内部には棟方志功作の「うとう親子の図」が掲げられています。例祭:9月15日。
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