青森県の賽の河原(恐山・川倉・今泉・深浦・仏ヶ浦)

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賽の河原とは

賽の河原・概要: 親より早く死んだ子供は最も親不孝で、子供や乳幼児といえ重罪とされました。その為、早死した子供達は死後の世界に行けず、その手前にある三途の川の河原で両親の償いの為、小石で仏塔を造り完成したら成仏出来ると信じられていました。しかし、それらの仏塔は完成間近になると、どこからともなく鬼が現れ次々に仏塔を破壊し、子供達は、また、最初から小石を積み上げなければいけませんでした。ただし、子供達が本心から悔い改めた場合のみ地蔵菩薩が現れ救われるそうです。これは、仏教と民間信仰、地蔵信仰とが合わさって形成されたもので、中世頃に発生し江戸時代以降は全国的に広がり各地で賽の河原が見られるようになります。信仰を具現化する為には「賽の河原」の舞台が必要で、主に荒涼とした風景と川、海、湖、池などが組み合わせた場所が選ばれたようで、場合によっては寺院の境内にも発生しています。

恐山

恐山・概要: 青森県の下北半島にある恐山(日本三大霊場・霊地:青森県むつ市)は正に火山活動にて創り出された恐山荒涼の景観とカルデラ湖(宇曽利湖:恐山湖)、それに流れる小川(三途の川)とがあり、古くから死者が集まる「オヤマ」として信仰されてきました。恐山は古くから下北半島での地蔵信仰の中心的な存在として恐山菩提寺が創建され、宗派を変えつつも長く存在し続けています。寛政5年(1793)に恐山を訪れた江戸時代の紀行家で民俗学の祖とされる菅江真澄は自らの書の中で「さいの河原」の記述が見え、別当である円通寺(むつ市)が記録した「恐山本坊円通寺誌」の寛政5年(1793)の項目にも「西院ノ河原」の記載がある事から少なくとも江戸時代中期には「賽の河原」が成立していた事が窺えます。恐山では子供を早くに失った両親達は賽の河原で難儀している子供を少しでも早く救う為、祀られている地蔵尊菩薩を詣り地獄巡りをし多くの供物を捧げたそうです。又、両親が子供の代わりに小石で仏塔を積んだり、あの世に行っても困らないように、帽子や草履、菓子、玩具、風車、手拭、金銭などを供える事も多く見られます。

川倉賽の河原

川倉賽の河原・概要: 川倉賽の河原(青森県五所川原市金木町)は恐山にある恐山菩提寺と同様に慈覚大師円仁によって開かれたとされますが、川倉賽の河原恐山の荒涼とした景観から来る聖地的な信仰とは異なり純粋に地蔵菩薩信仰が篤い場所のように感じます。境内にはおそらく恐山より多い地蔵尊像が奉納安置され様々な衣裳が着せられ中には白粉などの化粧を施しているものも見られます。恐山では地蔵菩薩に参る事で死んだ子供を救おうとしているようですが、川倉賽の河原では死者が成仏するまで地蔵尊に魂が宿るといった風に感じられ、死者の年齢が結婚適齢期になると結婚相手となる人形が奉納されるそうです。同じく東北地方の山形県では死者が結婚適齢期になると結婚した姿を描いた所謂「ムカサリ絵馬」が宗教施設に奉納される信仰があり、それに近いものを感じます。基本的には江戸時代以降の民俗風習の1つですが、死者も結婚する事で各付けが高まるとも、死者が幸せに暮らせるようになるとも云われています。ただし、このような絵馬を奉納する風習は青森県津軽地方と山形県村山地方に限定されるそうで興味深いものがあります。

今泉賽の河原

今泉賽の河原: 今泉賽の河原(青森県北津軽郡中泊町)十三湖を三途の川に見立てているようで、それを見下ろす高台に位置しています。今泉賽の河原発生期限が興国元年(1340)、十三湖で大津波が起こり多くの死者が出て、その供養の為に開かれたのが始まりとされ、賽の河原といっても、早く亡くなった子供の霊を救うといった事より祖先供養の方が主目的のような感じがします。ただし、興国元年(1340)の大地震後の大津波の話は伝承と、偽書として有名になった「東日流外三郡誌」によるもので、それによると死亡10万人、十三湊を中心に栄華を極めた安東水軍も一夜にして壊滅したと記載されています。近年、その話を立証する為に調査したところ、十三湖に津波による堆積物などが発見されず、科学的には津波が十三湖まで押し寄せる事は無かったと結論付けられています。何れにしても中世は、今泉賽の河原が津軽半島での地蔵信仰は当地だったとされ「イタコ発祥地」を自称しています。信仰の中心が川倉賽の河原に移ると衰退し土中に埋没しましたが、明治時代初期に土中から木造の地蔵尊像が発掘されたのを受けて改めて今泉賽の河原が整備されています。

深浦賽の河原

深浦賽の河原・概要: 深浦賽の河原(青森県西津軽郡深浦町)は森山海岸の先端に位置し日本海が三途の川に見立てているようです。深浦賽の河原規模は小さいですが恐山と同様な意味合いのようで、荒涼な雰囲気や日本海から吹き付ける強風が何とも言えない雰囲気があります。伝承も子供の霊や水子の霊にまつわるものが多く、信仰の対象になっています。ここでは地蔵や風車は少ないですが石積みの小塔婆が森山海岸の先端部分に点在し信仰の初源のような印象を受けます。中には塔婆の上から、赤や紫の布を被せたものも見られ何とも言えない独特な景観が見られます。深浦賽の河原は深浦町指定史跡に指定されています。

仏ヶ浦

仏ヶ浦・概要: 下北半島の位置する仏ヶ浦(青森県下北郡佐井村)も地蔵信仰が色濃く残されている場所で奇岩、怪石が辺りを囲み、仏ヶ浦白い砂浜と青い海があの世とこの世の境目のような印象を与えある種の緊張感が漂っています。現在も信仰が盛んで地蔵堂を中心に複数の地蔵尊が安置され(砂浜に打ち上げられた地蔵尊を祭っているとされ、海流などの関係で様々なものが流れ着く不思議な場所だったのかも知れません。)、例祭(仏ヶ浦まつり)である7月24日には白装束を着た信者(地元の女性)が大きな数珠(百万遍の数珠)を回しながら念仏(ご詠歌)を唱える念仏講が行われ、漁業関係者や遠方からも参拝者が訪れます。古くから、死者の魂が一端、仏ヶ浦に立ち寄り、それから極楽に旅たっていくという考えが伝えられ江戸時代の紀行家で民俗学の祖とも言われる菅江真澄も仏ヶ浦を訪れて、当時はこの浜を極楽浜と呼び、雪の降ったように白い砂浜だと説明しています。荒涼として景観とこの白い極楽浜が賽の河原に、全面の陸奥湾が三途の川に見立てられたと思われ、小石で高く積み上げられた石塔(塔婆)と思われる石積が数棟砂浜に点在し恐山の奥の院とも言われています。


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