青森県街道物語

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羽州街道・奥州街道・大間越街道

源義経・概要: 文治5年(1189)、藤原泰衡は兵500騎を率いて、源義経が籠る衣川館を急襲、義経の家臣は悉く討たれ、自身も自害して果てたとされます。しかし、岩手県と青森県の一部では、死んだのは影武者で、義経は密かに平泉を脱出し種差海岸に上陸、八戸周辺に潜み、津軽半島の三厩から蝦夷地(北海道)に渡ったとの伝承が残り信じている人も少なからずいます。これらの伝承、伝説は少なくとも江戸時代初期には存在し、それを補完するような神社や史跡などが数多く存在します。江戸幕府もそれら伝説をアイヌの同化政策に悪用し、義経が蝦夷地に渡りアイヌの神になったとして信じ込ませ、さらに、幕末から明治時代初期にかけては義経が大陸に渡り満州人やジンギスカンになったとの噂が流布するようになっています。

円空・概要: 江戸時代前期の木食上人です。木食とは火食・肉食を避け、木の実・草のみを食べる修行を受けた僧侶の事で、円空は全国で自ら仏像を彫刻しながら全国を巡錫して生涯12万体の仏像が製作されたとも云われています(現在発見されているのは5千数百体)。寛文6年(1633)には青森県にも来訪していますが身分や出生が不明な遊行する僧との理由で弘前藩から城下を追い出され、青森から三厩を経由して松前(蝦夷地)に渡っています。円空がどの様な経路で津軽に入ったのかは不明ですが、弘前からは羽州街道又は乳井街道により青森に出て奥州街道で北上し三厩に至ったと見られ、その経路沿いには数体の円空仏が見つかっています。

菅江真澄・概要: 菅江真澄は江戸時代中期から後期にかけての三河国渥美郡牟呂村出身の紀行家で、現在でいう民俗学の祖とも言われる人物です。幼少期から青年期まで和学、和歌、漢学、画技、本草学、医学などを修得し広く知識を得ると30歳にして全国を歴訪するようになり、その土地土地の民俗文化や風習、歴史などを書き留め、さらに、挿絵(スケッチ画)や詩歌などを加える独自の形式を編み出しています。特に挿絵は写実的に描かれている事から当時の民俗や文化を知る資料としても価値が高いとされてます。信越地方や東北地方、蝦夷地にまで足を伸ばし実績を重ねると弘前藩に重用されますが、余りにも細かな情報を得た為、敵対していた盛岡藩の間者(スパイ)と判断され弘前藩を追放、大間越街道(西浜街道)を南下して深浦港から秋田に渡り、晩年は久保田(秋田)藩から重用され領内で多くの紀行文が残されています。

伊能忠敬・概要: 伊能忠敬は元々小関村(千葉県山武郡九十九里町小関)の名主小関家で生まれましたが、次男で小関家の娘でもある母親が他界し養子だった父親が小関家を去ると、忠敬も転々として伊能家の婿養子となりました。伊能家も佐原の名主などを歴任した豪商で醸造業や貸金業、利根川の利権などで財を成し、忠敬の代には名字帯刀が認められ村方後見の役を命じられています。村の開発に尽力する一方で貧民救済に積極的に取り組み、他村で多くの餓死者を出した飢饉や、大洪水でも佐原では餓死者や打ち壊しを出さなかったとされます。40代で隠居すると特に暦学と天文学に興味を持ち江戸に出て高橋至時に師事しています。学問が深まると、地球の大きさにも興味を持ち始め、一方で蝦夷地の測量や正確な地図の作成の需要が高まった事から、幕府に嘆願して認められ寛政12年(1800)第一次測量が行われました。予想以上の実績を挙げた事からその後の測量も認められ文化13年(1816)第十次測量まで行われ、文化14年(1817)に測量を元に地図作成途中に死去しています。その後の作業は至時の嫡男高橋景保が引き継ぎ文政4年(1821)に「大日本沿海輿地全図」が完成しています。

吉田松陰・概要: 吉田松陰は長州藩士で幼少の頃から勤勉で諸国を遊学する事で知識と視野を広げました。嘉永4年(1851)、江戸遊学で友人となった宮部鼎蔵らと東北遊学を約束し松陰も藩に出国の手続きをしましたが、不手際により中々許可が下りませんでした。約束の当日、松陰は悩んだ末、自分が友人の約束を破る事は、罪を犯す事よりも重いと判断し長州藩を脱藩。江戸に帰ってきた際には事実上の改易となり親族まで処分が下りました。その後は、外国留学を画策し、ロシア軍艦やペリー艦隊への乗り込みを計画しましたが何れも失敗し、その罪により長州藩に強制的に帰国させられ野山獄に入獄させられています。安政2年(1855)以降は出獄し、杉家(吉田松陰の実家)に幽閉となり、安政4年(1857)、叔父の玉木文之進が主催し松陰の学び屋でもあった松下村塾を引き継ぎ、多くの門弟を育てました。その後、子弟の教育を行う一方で幕府の批判を強め、倒幕の計画をした事で再び捕縛され、安政6年(1859)に安政の大獄に連座して江戸で斬首刑になっています。松陰の門弟には高杉晋作や伊藤博文、山縣有朋など数多くの維新獅子を輩出している事から明治維新の精神的支柱だったとも云われています。

古川古松軒・概要: 古川古松軒は享保11年(1726)に備中国下道郡新本村(岡山県総社市)に生まれました。幼少の頃は早くに母親を亡くした事などから素行が悪かったとされ、賭博で使い込んだ借金を踏み倒して訴えられています。宝暦14年(1764)に父親が死去し、それを契機に四国八十八箇所巡礼に行うと全うな生活に戻ったとされます。その後は全国を歴遊し、そこで見聞した事を文章や絵図にまとめました。実力が評価されるようになると幕府巡見使随員の採用や地誌の編纂などに携わるようになり寛政7年(1795)には、岡田藩から苗字帯刀を許されています。

松浦武四郎・概要: 現在の三重県松阪市小野江町出身の江戸時代末期から明治時代にかけての探検家、冒険家、浮世絵師で北海道を命名した人物としても知られています。幼少の頃は山本亡羊(江戸時代後期の本草家、医師)に師事し本草学(中国で発達した医薬に関する学問、薬草や薬種など)を学ぶと全国を歴遊するようになりました。天保9年(1839)に一時出家しましたが、弘化元年(1844)に還俗すると、決意を新たに探検家に転進しています。蝦夷地には計3度の探検が行われ蝦夷地のみならず択捉島や樺太まで足を伸ばしました。その実績が認められ安政2年(1855)には蝦夷御用御雇に抜擢され、公的な探査が3回行われ、それらをまとめた「東西蝦夷山川地理取調図」を発刊しました。明治新政府下では明治2年(1869)に開拓判官に拝命され、蝦夷地の名称選定には、アイヌ語の「カイナ=この地に生まれた者を尊敬する」に因み「北加伊道」を推薦し、元々日本本土の呼称にある東海道・南海道・西海道の流れに沿う形で「北海道」と決められました。

イザベラバード・概要: イギリス人女性紀行家として知られ明治11年(1878)6月から9月に掛けて伊藤鶴吉を伴い北関東から東北、北海道を旅しました。江戸から日光街道を使い、日光東照宮や日光周辺を見学した後は、会津西街道を北上し、田島宿や大内宿を経由して会津坂下宿に至り、そこから越後街道(米沢街道)で津川宿、そこから阿賀野川舟運を利用して新潟に入っています。新潟では医療伝道会の仕事についての調べ物があったとされ1週間程滞在し海路で蝦夷地(北海道)に渡航する予定でしたが、次ぎの便が来るまで1ヶ月かかる事から急遽陸路に変更しています。イザベラは米沢街道(越後街道)で米沢城下に入り、上山城下からは羽州街道を北上し出羽国(現在の山形県、秋田県)を縦断して津軽に至たり、青森湊から蝦夷地に渡航しました。その後、今回の旅での紀行文である「日本奥地紀行」が出版され、外国人の目から見た明治時代初期の日本の様子が描かれ資料的価値も高いとされています。

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