油川宿(青森市)概要: 油川宿は奥州街道と羽州街道が合流する交通の要衝として重要視された宿場町です。奥州街道は油川宿を基点とし北は松前道や松前街道、上磯街道、外ヶ浜道、三厩街道などと表記していますが、青森宿を奥州街道の終着点とする文書も存在する為にかなり曖昧だったと思われます。
中世は外ヶ浜周辺を支配した奥瀬氏(南部家の家臣)の居城、油川城があったこともあり当時から周辺の中心的な立場だったようです。しかし、天正13年(1585)、大浦為信(後の弘前藩初代藩主)の侵攻により当時の城主奥瀬善九郎は事実上油川城を開城し南部領に引き上げると油川領は津軽家の支配下に入ります。
江戸時代当初は油川湊も弘前藩内では重要な湊の1つとされ北前船の寄港地として多くの物資が集められ町も繁栄しましたが弘前城の城下町や青森湊に立場が押され、さらに度重なる火災によって次第に衰退していったそうです(油川は古くからの中心都市として支配体制が確立していた為、津軽家はそれに対抗する為に青森湊を開いたとされ、当初は嫌がらせに近い法令を施行し青森湊を優遇しましたとされます)。
それでも、油川宿には弘前藩の代官所が設けられ当地方の行政の中心としての立場は変わらず幕末には戸数200余戸を数え、舟問屋や商家、造り酒屋が軒を連ねる商人町として生き残り、現在でも西田酒造店(羽州街道の終点)や大正時代に鰯の缶詰工場として建てられた煉瓦造の「イタリア館」など古い建物も点在しています。
尚、松前藩の本陣はなく宿場から離れた六枚橋付近にある赤平家が参勤交代の際の宿泊所とし、享和2年(1802)に領内の測量の為に訪れた伊能忠敬は、平井津兵衛宅(近江屋)で8月11日、12日に宿泊しています。
主要寺院である浄満寺は油川城の城主奥瀬家の菩提寺として庇護され寺運も隆盛しましたが、奥瀬家の衰退と共に衰微し元和5年(1619)に再興しています。境内には奥瀬家歴代の墓碑(五輪塔)の他、青森湊開発に尽力した森山弥七郎供養碑(高さ93cm、厚さ33cm、幅70cm、青森市指定文化財)、千人塚(天明の飢饉で餓死した人々を埋葬)などが建立され、本堂内部には円空作の木彫釈迦牟尼如来坐像(像高29.5cm、一木造、青森市指定文化財)が安置されています。
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