青森市: 浄満寺

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概要・歴史・観光・見所
浄満寺(青森市)概要: 寺宝である釈迦牟尼如来坐像は円空上人(江戸時代前期の木食僧)が彫刻したもので、像高29.5cm、一木造、素木、鉈裁ち割り彫上げ仕上げ、円空は飛騨国(岐阜県)出身で全国を巡錫しながら独特の仏像を彫刻し寛文6年(1663)頃に津軽に入り弘前城の城下で布教活動をしていましたが藩から城下からの退去命令が出され青森経由で蝦夷地に渡り、その行程の際(又は寛文7年:1664年、蝦夷地から再び津軽に入り秋田に向かう途中)、浄満寺の釈迦牟尼如来坐像を彫刻したと推定されています。釈迦牟尼如来坐像は昭和38年(1963)に青森市指定文化財、平成9年(1997)に青森県指定文化財に指定されています。境内にある森山弥七郎供養碑は寛永元年(1624)に青森湊開港に尽力した弘前藩士の森山弥七郎の供養塔で寛文6年(1666)に油川の寺内野に建立され野木和公園入口を経て昭和23年(1948)に浄満寺境内に移されました。当時、青森湊が開港した事で隣接していた油川湊が大打撃を受けた事を考えると弥七郎に対して怨みを持つ人物が多かったと思われ何故供養塔が建立されたのか理由や由来などの詳細は伝わっていません。森山弥七郎供養碑は高さ93cm、厚さ33cm、幅70cm、青森湊の歴史的遺産である事から平成3年(1991)に青森市指定文化財に指定されています。本堂背後の高台は千人塚と呼ばれ天明4(1784)に起こった天明の大飢饉により油川周辺では住民の内約300人が餓死し、流浪の末当地で亡くなった人約400人が道端で息絶えたを事を受け当時の代官と浄満寺の住職が相談の上、境内の空き地に大きな穴を掘りそれらの死体を埋め供養し千人塚と名付けたと伝えられています。千人塚の頂上部に建立されている五輪塔群は中世、当地の領主で油川城の城主を歴任した奥瀬家一族の墓碑と伝えられるもので、当初は寺内野にありましたが安政5年(1858)に当時の住職である良快の発案で浄満寺境内に移され大正10年(1920)に現在地に移されています。奥瀬氏は南部家の家臣で、同じく南部家の客将だった浪岡城の城主北畠氏の配下となり当地を治めていましたが天正13年(1585)、大浦為信の侵攻により油川城を放棄し南部家領に撤退しています。津軽八十八ヶ所霊場第20番札所(札所本尊:阿弥陀如来・御詠歌:後の世を ただひとすじに 浄満寺 阿弥陀如来の 広きめぐみを)。宗派:浄土宗。
浄満寺
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