奥州街道: 野辺地宿

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概要・歴史・観光・見所
野辺地宿概要: 野辺地宿は南部藩に属し、交通の要衝だけでなく北前船の寄港地として上方や蝦夷地などの物資が運び込まれ南部藩の北の玄関口として経済的にも重要視されました。特に尾去沢鉱山(秋田県鹿角市:土木学会選奨土木遺産、近代化産業遺産、日本の地質百選)が藩営になると鉱物が野辺地湊から上方へ運ばれた為飛躍的に発展しました。又、犬猿の仲であった弘前藩との藩境に隣接していた為、軍事的にも重要視され南部藩では元禄4年(1691)に野辺地代官所(野辺地城跡に設置された行政施設で、一国一城令で城として認められなかっただけで、空堀や土塁などが設けられ事実上の城として機能しました。)を設けなど整備され湊番所や遠見番所、銅蔵、大豆蔵などが順次設けられ、幕末には台場が設置され文政10年(1827)には廻船問屋野村治三郎によって浜町の常夜塔が建立されています。。明治元年(1866)には官軍側の津軽藩、黒石藩と奥羽越列藩同盟側の八戸藩、盛岡藩との間に野辺地戦争が勃発し弘前藩兵の死傷者が40名以上にのぼる激戦となり多くの被害を出しています。野辺地戦争では南部藩が勝利し弘前藩は自領に引き上げたものの、戊辰戦争という大きな脇組みでは殆ど影響が無く新政府としては私闘という位置付けになっています(野辺地戦争は南部藩が新政府軍に降伏して後に起こった戦いで、弘前藩が南部藩領に侵攻する理由がありませんでした。弘前藩は当初から旗色を鮮明にしなかった事から焦りもあり、結果的に戦って見せたとの見解もあります)。

野辺地宿:写真

野辺地宿
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