・田子館が何時頃築城されたのかは判りませんが、当初は牛尾館と呼ばれ、佐々木惣左衛門200石の居館だったされます。
明応年間に南部家20代当主南部信時が隠居すると、牛尾館が接収され、信時に隠居所として整備され、惣左衛門は隣地に居館を遷して整備しました。
この事から、南部氏の居館を田子前館、惣左衛門の居館を田子館(佐々木館)と名称を分ける場合もありますが、一般的には田子館と呼ばれているようです。
信時の後は4男の南部光康が城主となり、光康が横内城(堤ヶ浦城)に遷ると、南部彦三郎宗経の子供とされる南部経行が城主となり、景行の代に大光寺城に遷り、大光寺南部家の祖となっています。
その後の詳細は不詳ですが、南部家22代当主南部政康の2男である南部高信が城主となり、26代当主となる南部信直は田子館で生れたとされます(その後、高信は石川城に入り「石川」姓を掲げ、石川城を本拠地として大きく版図を広げ人物として知られています。)。
ただし、信直は天文15年に高信の庶長子として岩手郡一方井城で誕生し、13歳で高信に引き取られ田子館で成人を迎えたとの説が有力とされます。
又、信直の生母で、高信の側室である芝山芳光大禅定尼は一方井安政の娘とされる事も、信直が一方井城で生れた根拠の一つとなっています。
何れにしても永禄年間には信直が城主で300石の知行だった事が慶長3年に編纂された「館持御支配帳」に記されています。
天正4年には26代当主南部利直も田子館で誕生し、天正10年に信直が南部宗家を継承し三戸城に遷ると、田子館は三戸城の別館として利用されています。
田子館跡は貴重な事から田子町指定史跡に指定されています。
青森県:城郭・再生リスト
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