・石川城は別名、大仏ヶ鼻城とも呼ばれ、建武元年に曾我道性によって築かれたとも云われています。
津軽曾我氏は、鎌倉時代の早くから幕府執権北条家に従った事で得宗被官となり、建武5年には曾我広忠が陸奥国平賀軍岩舘の地頭代に就任し、貞応元年には曾我五郎二郎が入部、貞応3年には地頭職となっています。
道性は鎌倉時代末期の当主で、執権北条家の御内人として周辺の北条一族や関係者から頼られる立場だったようです。
鎌倉幕府が滅ぶと、旧勢力の掃討が津軽地方にも及び、石川城はそのような背景で築かれたと思われます。
しかし、その混乱の中、陸奥国国司だった北畠顕家の命を受けた曾我光高や成田泰次、工藤貞行等との合戦に敗れ道性は捕縛され、子供である重経は討死、曾我家は没落しています。
その後の詳細は不詳ですが、戦国時代には南部家の支配下に入り、天文2年には三戸南部家当主南部右馬允安信が弟である南部左衛門尉高信を津軽郡代に任命し石川城に配し、高信は石川城を本拠地とし、平賀郡、田舎郡、鼻和郡の津軽三郡を治めました。
元亀2年、津軽統一を画策する大浦為信が堀越城に密かに兵を集め石川城を急襲し、当城は落城、高信も自刃に追い込まれ、その後は大浦家に従った板垣将兼が当地に配されています。
将兼は為信から信任が篤く、石川城攻めでは先鋒を勤め手勢150騎を率いて僅か1日で陥落させています。
しかし、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは、津軽家は東西両陣営に分かれて対処した為、将兼は西軍方として津軽家の本城だった堀越城を占拠しています。
本戦が東軍の勝利で終結すると、為信の命を受けた金信則に攻められ将兼は堀越城の城内で討死しています。
その後の石川城の詳細は不詳ですが慶長16年に弘前城が築城されると廃城になっています。
現在も郭の形状や土塁、空堀、門跡等が残され大仏公園として整備されています。
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