横内城

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横内城:略データ
・場 所・青森県青森市横内字亀井(常福院)
・築城年・明応7年(1498)
・築城者・南部光康
・城 主・南部氏、堤氏
・構 造・平城
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・横内城が何時頃築かれたのかは判りませんが、「南部系譜」によると南部家20大当主南部信時の4男である南部光康が明応7年に当地に配されている事から、この頃に築かれた可能性があります。

光康は横内川の治水工事に尽力し、湿地帯に近い青森平野を開削、現在の青森市の基礎を築いたとの評価を受ける人物で、「ねぶた」の題材にもなっています。

光康は堤弾正を称した事から、その後裔は「堤」姓を掲げ弾正を代々継承しました。

天正15年に津軽統一と本家筋の南部家からの独立を画策する大浦為信は南部一族が守備する横内城に狙いを定め、侵攻を開始、程なく横内城は落城し、当時の城主4代目堤弾正施文は為信に従った福士弥三郎や福士小三郎等と交戦し討死したと伝えられています。

その後は大浦家に従った「外ヶ浜城番十人衆」が配されますが、慶長年間に廃城になったと推定されています。

現在は城域の多くが常福院の境内で、郭の形状や空堀の一部が残されています。

常福院は元々、定額寺と号していましたが、3代目堤弾正孫六則景の室である朝日御前が討死した4代目や家臣達の菩提を弔う為に仏門に入り、長く当寺で供養した後に没すると、大浦為信の叔母が哀れと思い、朝日御前の戒名である「常幅院殿安養妙貞大禅定尼」に因み寺号を「朝日山常福院安養寺」に改めています。

常福院の境内には孫六則景夫妻の墓碑が建立されています。

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