・大光寺城は文明年間に津軽郡代として外ヶ浜に配された南部光泰の孫にあたる、南部景行によって築かれたと推定される中世の平城です。
近隣にある大光寺古城や、大光寺五日市館とは時代背景や城息が被らなり事から当城は大光寺新城として区別されるのが一般的です。
大光寺南部家は、当城を拠点として版図を広げ、戦国時代には栂地方を大浦氏、北畠氏と3分する勢力となりました。
永禄〜元亀年間には北信愛、光愛父子が城主、滝本播磨守重行が補佐する体制となり、当時は1万5千〜2万石を領し、近隣にある田舎館城、浅瀬石城、新屋城、尾崎城、高畠城、沖館城、乳井城、杉館、三ツ目内城を配下に収め、城下には90軒の家屋が軒を連ねていたとされます。
光愛が死去すると、嫡子六郎が幼少だった事から滝本重行が後見人として領内の行政権、軍事権を掌握し滝本体制が確立しています。
天正3年には大浦為信に侵攻を受け、危機的な状況に陥りましたが、重行は精鋭700の兵を自ら率いて、為信の本陣に切り込み、大浦軍の撤退に追い込んでいます。
しかし、為信の執念は凄まじく、翌、天正4年元年に、城内で新年の祝賀を行っている最中に襲撃され大混乱の中、あっけなく落城、重行は南部領に落ち延びています。
重行は天正7年に六郎を擁立し、浪岡城の北畠顕則等の協力を得て、津軽に侵攻したものの、六羽川合戦で大浦型に大敗、六郎も討死した為撤兵を余儀なくされています。
大浦寺城は大浦方の支配下に入り、天正10年には為信に従った乳井建清に与えられ、慶長4年には為信の娘婿である津軽建広が1万石で城主となっています。
慶長12年に為信が死去すると、為信の長子である信建も既に病死していた事から、信建の長子熊千代が相続するのが本筋でしたが、信建は関ヶ原の戦いで西軍に組下事を問題視され、熊千代も幼少だった事から、信建の弟である津軽信牧を擁立する一派と家中を二分する対立となりました。
建広は熊千代を擁立したものの、慶長14年に結局幕府が仲裁に入り、その裁定により信牧派が勝利した為、建広は弘前藩から追放されています。
しかし、建広の家臣がそれを不服とし、大光寺城に立て籠もると、信牧は家臣である高坂蔵人や一戸兵庫之助等を派兵し反乱は鎮圧されています。
慶長15年に弘前城が築城している際に大光寺城は廃城となり、多くの建材が弘前城に再利用され、弘前城の亀甲門(北門)は大光寺城の追手門を移築したものとされます。
因みに弘前城の追手門(北門)は国指定重要文化財に指定されています。
大光寺の跡地には僅かに残る郭の形状や堀の跡と思われる水路等が確認出来るものの、多くが住宅街となりその姿が失われています。
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