・田舎館城が何時頃築城されたのかは判りませんが、一説には建武3年/延元元年に工藤氏、又は安保弥五郎入道によって築かれたとされます。
一般的には鎌倉時代末期頃に幕府執権北条家の御内人である工藤右衛門尉貞行が田舎郡の地頭代として入部しています。
貞行は鎌倉幕府が滅ぶと、建武新政府軍に与し、幕府残党軍に掃討に尽力した事から建武2年には鼻和郡目谷郷、外ヶ浜野尻郷が与えられています。
一方、建武元年には安保弥五郎入道には沼楯村領が安堵されています。
その後、北朝方の曾我太郎貞光との間に激しい対立となり、建武4年に所謂「田舎楯合戦」が発生しています。
文明7年には南部家の家臣で当地の代官に就任した千徳政久は田舎館城に次男である千徳貞武を配し、以後、貞武の後裔が城主を歴任しています。
戦国時代、津軽統一と南部家からの独立を画策する大浦為信と激しく対立し、本家の千徳家は逸早く大浦家に転じたものの当時の田舎館城の城主千徳政武は所領750町歩、直臣10数人、雑兵500人を安堵され、南部家から篤く信任されていた事から、南部家への忠誠を誓いました。
天正13年、安武家からの増援部隊として当地に派兵された名久井日向守は宇杭野の戦いで大浦勢に大敗し、田舎館城は為信率いる3千の兵に取り囲まれています。
政武は312の城兵と共に籠城したものの、10倍の敵兵には如何ともしがたく、303人が討死し自身も自刃に追い込まれ、田舎館城も落城しています。
田舎館城は300m四方の平城で主郭と外郭、東郭で構成され周囲を堀で囲い、城の北側と南側の水門を閉じると周辺が沼地になる要害だったとされます。
現在は主郭の北隅跡に「盛コ」と呼ばれる櫓台跡と思われる土盛があり、千徳政武以下戦死者300余名を埋葬した際に植樹されたと伝わるサイカチの巨木が歴史を感じさせてくれます。
田舎館城の城跡は貴重な事から田舎館村指定史跡に指定されています。
サイカチ大樹は推定樹齢400年以上、貴重な事から田舎館村指定天然記念物に指定されています。
青森県:城郭・再生リスト
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