・相内館は建久2年に南部光行が築いたと伝わる中世の城郭です。
伝承によると光行が家臣73人と友に糠部郡に入部した際、八戸湊から上陸したものの、八戸には人家が少なく宿泊するのに適していなかった事から馬淵川を遡りました。
当地に境内を構える観音堂を宿所にしたものの、境内だけでは手狭だった為、村人と相談した結果、現在地にあった豪農の屋敷を借り上げ、村人達の協力等により一日で堀を設けた事から一夜堀館と呼ばれたと伝えられています。
建久3年に光行が平良ヶ崎館を築くと本拠地を遷し、周辺の土豪である蛇沼惣左衛門、総米弥左衛門、上砂子喜左衛門、佐々木氏、原氏、斗内氏、福田氏、豊川氏、日ノ沢氏等を支配下に治め、跡継ぎである三郎実光を当地に留めて光行は鎌倉に帰還したとされます。
実光も承久3年には北条康時に従軍し、宇治川の戦いにも参戦、嘉祥4年には4代将軍藤原頼経の上洛の際の随兵を勤め、慶長4年には宗尊親王の鶴岡八幡宮参拝の供奉人を勤めていた事から、多くは鎌倉等で采配を振るったと思われます。
その後、相内館が文献に記載された事がない為、どの様な経緯があったかは判りませんが、平良ヶ崎城や聖寿寺館の支城として利用された可能性があります。
発掘調査では深さ2.9m、推定幅8m以上、長さ9m、推定全長100mの堀の一部が発見されており、伝説の一端とされています。
相内館の跡地は貴重な事から南部町指定史跡に指定されています。
青森県:城郭・再生リスト
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