菅江真澄: 権現崎

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権現崎

菅江真澄:権現崎(青森県北津軽郡中泊町)

【菅江真澄】菅江真澄が始めて権現崎津軽半島)を訪れたのは寛政8年(1796)6月23日、安東氏の館を見る為に出立し、春品寺跡山王坊跡、安東氏の館跡(福島城)などを見学し権現崎に至っています。権現崎は日本海に差し出している尾山(御山)の事で、別称で「権現が鼻」と言い、小泊の浜辺から1里ばかり海に突き出し飛竜権現と呼ばれる神様が祀られ、村人からは権現崎には、猿の類とは思われるものの、怪しい獣が住んでいると聞きいています。真澄は岩の形が獅子頭に似ている事から、山伏等がその獅子頭を神として祭り、飛竜権現と名付けて祠を建てたのだろうと推測しています。

【権現崎・徐福伝説】−権現崎には紀元前3世紀頃、中国の秦王朝の方士(方術に秀でた者・学者)である徐福が訪れたとの伝説が残っています。それによれば、徐福は中国から不老長寿の霊薬を探す為に日本を訪ね、権現崎にある小泊港から上陸し、当時、仙人の薬と言われたギョウジャニンニクと薬草を混ぜて霊薬を作り、住民達にその製法を伝え、さらに中国の進んだ漁法なども伝授したと伝えられています。

【尾崎神社】−尾崎神社の創建は不詳ですが伝承によると大同2年(807)、徐福の後裔によって徐福の御霊が祀られるようになったのが始まりと伝えられています。その後、神仏習合し飛龍大権現を主祭神とする飛龍宮と呼ばれるようになり、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され改めて伊邪那岐命と伊邪那美命の分霊が勧請され尾崎神社に社号を改めています。徐福伝説が最も伝えられているのが現在の紀伊半島周辺である事から熊野信仰の修験者が権現崎を修行の地として求めた際、徐福伝説が流布され尾崎神社がその信仰の一翼を担ったとも考えられています。

【柴崎城】柴崎城(津軽半島)は寛喜元年(1229)、安東宗季(鎌倉幕府御内人、蝦夷代官職)によって築かれた城で、安東氏が設けた三段構えの最後尾に位置していました。嘉吉3年(1443)、南部家の津軽侵攻により安東氏が敗北すると、柴崎城に退却した後に蝦夷地(現在の北海道)に逃れたとされます。

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