・下名久井館が何時頃築城されたのかは不詳ですが、幾つかの説があります。
伝承によると、鎌倉幕府の有力な御家人だった工藤祐経が、曾我兄弟に仇討ちの為に死去すると、祐経の長男である犬房丸が、当地まで逃れてきた、又は当地を賜ったとされ、当館を築いたと伝えられています。
又、別説によると、文久5年に発生した奥州合戦で軍功を挙げた工藤小次郎行光がその恩賞として糠部郡を賜り、弟である工藤祐光(資光)が当地に下向した際に当館を築いたとされます。
その後の詳細は判りませんが、伝承によると戦国時代の天文年間に南部家24代当主南部晴政の家臣である赤沼備中が城主だったと伝えられています。
赤沼備中は天文8年に南部家に対して何らかな恨みを持ち、奥瀬安芸を惨殺した後に聖寿寺館を放火し出奔、その後下斗米昌家に討ち取られた人物ですが、一般的に赤沼備中は十和田市赤沼の赤沼館を居館だったとされます。
一方、当館が 慶長3年(1598)に編纂された「三戸館持支配帳」に記載されていない事から、罪人となった赤沼備中の居館という事で抹消された可能性もあります。
下名久井館は本丸にあたる大舘を中心に外舘、仁良舘、和舘、東舘、絵舘、古舘と呼ばれる7つの曲輪(舘)で構成され、北西の馬渕川、南の五百市川、東の油川を天然の外堀とした大規模な天然の要害でした。
現在でも郭の形状や堀跡と思われる痕跡等が僅かに残されています。
青森県:城郭・再生リスト
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