・中野館が何時頃築かれたのかは判りませんが、明応元年頃に造酒三郎正義(武正)が三戸郡櫛引の中野の地を拝領し、その居館だったとされます。
造酒三郎正義(武正)は南部家の一族である四戸家十二代当主四戸彦九郎宗政の次男で、当地に配されると地名に因み「中野」姓を掲げています。
中野氏系図によると、傍流の可正の家系から中野忠治家、中野営五郎家、中野福弥家、中野昇平家等が派生しています。
一方、本流の正義の子供である勘三郎正静の子供、門助正為が南部惣領家の南部信直、利直に仕え、中野領300石が安堵されています。
跡を継いだ門助正昆は、中野領300石のまま分士となり八戸に出仕しています。
門助は中野酒造秀政500石の子供である中野右馬之助政之の与力で、秀政は九戸政親の弟、実親の娘を妻としていた関係で九戸の乱では九戸氏方に加担し中野館も南部家から攻められたと伝えられています。
しかし、正昆の妻が南部直房の生母である仙寿院の実家の中野家と姻戚関係だった岩泉氏の義包の娘だった事から八戸の分士になったと思われます。
中野館は東西280m程、南北300m程の平城で、本郭を中心に東郭、北郭、中郭が配され、本郭南側には家臣の屋敷や天徳院が境内を構え、さらに、頃巻川を天然の外堀に見立、各郭は空堀と土塁で区画されていました。
現在は本郭が住宅地として整備され、東郭は南郷公民館中野分館で利用されていますが、郭の形状や土塁、空堀の一部が残されています。
青森県:城郭・再生リスト
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