・森ノ腰館が何時頃に築かれたのかは判りませんが、新堀作兵衛、又は北重左衛門直連が城主だったとされます。
新堀作兵衛門は「南部家伝旧正録」によると新堀館300石と記されたおり、本貫地は岩手県花巻市石鳥谷町新堀だった事が判ります。
北重左衛門直連は、桜庭光康の2男の母方の叔父北信愛の家系で、森越村、下坂村500石を領していました。
直連は南部領に侵攻した和賀忠親と伊達政宗勢を退かせた猛将で、鹿角郡の白根金山の開発に尽力する等領内経営にも非凡な才能を見せたとされます。
慶長20年に発生した大坂の陣では盛岡藩主南部利直の密命により大坂城に立て籠もる豊臣秀頼に繋ぎを付け多額の資金を豊臣方に流しましたが、豊臣家が滅びると、利直の行動が問題視されました。
2代将軍徳川秀忠から詰問を受けると、利直は直連が独断で行った事と返答しその難を逃れた為、直連はその罪を一身に受け捕縛された後に盛岡仙北原で処刑されました。
その際、心ある人物が密かに首を持ち去り、居城である森ノ腰館の一角に埋葬し首塚を設けたと伝えられています。
森ノ腰館の跡地には櫓台や土塁だったと思われる土盛や堀の一部が残されています。
青森県:城郭・再生リスト
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