・藤崎城が何時頃築かれたのかは不詳ですが、寛治6年(1082)頃に安倍堯恒が築いたとも云われています。
ただし、北東北の中世以前の資料が少なく、松前氏や津軽氏、南部氏、安東氏(秋田氏)等の記録は、後年に自分の家の正当性を強調する為に改変された可能性が高く、どの程度事実が反映されているのかは判断が難しいところです。
伝承によると俘囚長の一族である安倍貞任が前九年合戦で源頼家に敗北した際、壮絶な最後を遂げたものの、その遺児である高星丸が密かに戦場を離脱し当地まで落ち延び、その後裔が安倍堯恒とされます。
当然、これを証明する客観的な資料は無いようです。
鎌倉時代に入ると安藤氏(安東氏)は幕府執権北条家の被官となり、津軽地方にあった北条家の直領である得宗領を管理する立場となり、鎌倉時代末期頃には蝦夷管領に命じられています。
蝦夷管領には蝦夷(北海道)との交易等を取り纏める役割や陸奥国や出羽国に残存していた蝦夷を統括する役割を与えられています。
これらの事から安東氏は安倍貞任の後裔や地元豪族というよりは、その他の津軽の得宗領の管理者と同様に北条家から派遣された鎌倉武士等で、その後当地に根を下ろし勢力を拡大したようにも感じます。
何れにしても当時の安藤氏は津軽地方から蝦夷地にかけて大きな権益を持っていた為、その権益を巡り、藤崎城を本拠とする安藤上国家と、十三湊を本拠とする安藤下国家が激しく対立し、双方を支持する蝦夷勢力が加担した事で、所謂「蝦夷大乱」と呼ばれる大規模な争乱に発展し、鎌倉幕府が衰退した大きな要因になったとも云われています。
嘉暦3年に一応和睦が成立したものの、その後も対立関係は燻り続け、南北朝の動乱では再び対立が表面化し、南朝方に与した安藤上国家が敗北し、以後、藤崎城は安藤下国家の一族の支配下に入り安藤教季が城主となっています。
しかし、15世紀中頃に、南部家の津軽侵攻が本格化し、大敗を喫した安藤一族は四散し藤崎城も南部家から接収されたと思われますが、その後、藤崎城が記録で記される事が無くなった事から程なく廃城になったとされます。
永禄10年(1567)、南部家により藤崎城が再整備されたものの、その後は一族衆だった大浦為信の支配下に入ったようで甥にあたる大浦六郎と大浦五郎が配されました、天正13年(1585)に事故死し、その後廃城となっています。
藤崎城は平川右岸の微高地に築かれた中世の平城で、東西250m、南北800m程の規模を誇り、主郭を挟む込むように西郭と東郭が配されていました。
現在は住宅街となった為、多くの遺構は失われましたが藤崎八幡神社には土塁の一部が残されています。
青森県:城郭・再生リスト
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