観瀾山公園(津軽半島・外ヶ浜町)概要: 観瀾山は標高40m程の小高い山で、古くはアイヌ人によってチャシ(アイヌ人の城)が設けられていました。江戸時代後期になると弘前藩領の海上でも度々外国船が現れるようになり、海岸防衛の為、文化8年(1811)に観瀾山に台場を設け海岸防衛に努めました。整備の内容は五十目玉筒砲(一挺)、百目玉火石石火矢筒(一挺)、百目玉砲置筒(一挺)、木筒(一挺)、三百目玉筒(一挺)となっています。
当初は鷲がよく見られた事から鷲尾山、館が築かれていた事から舘鼻山と呼ばれていましたが大正12年(1923)に久邇宮邦久殿下が当山に台臨された際、風光明媚な風景から「観瀾山」の名称を賜っています。又、太宰治の小説「津軽」の舞台でもあり、蟹田では太宰はN君(中村貞次郎)の実家で宿泊し観瀾山で花見をして蟹田の事を「風の町」と表現しています。
そのような縁から観瀾山には太宰治文学碑が建立され案内板によると「 郷土が生んだ作家、太宰治の文学碑は、小説「津軽」に登場する友人Nさんこと、故中村貞次郎氏の尽力により、昭和31年8月6日に建立された。太宰未亡人の美和子さん、長女園子さん、作家の井状鱒二、壇一雄、伊馬春部、小山清、北畠八穂ら多数が参列して除幕式が行われた。碑文の「かれは人を喜ばせるのが何よりも好きだった!」は、太宰の作品「正義と微笑」から井状鱒二氏が選び、佐藤春夫氏が筆をとったものである。」とあります。
観瀾山公園には太宰治文学碑や蟹田台場跡の他、久邇宮邦久殿下お手植の松、川柳大賞の受賞作品が刻まれた石碑、中師稲荷神社、三十三観音石像などがあり、蟹田町の町並みや遠く下北半島の仏ヶ浦を望む事が出来ます。
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